以前後輩のD井氏からメール来ていたな。

ここで公開してみよう。
なにせ99年の時のメールだし、探し出すのが大変。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっと前の話ですが、レビンというユダヤ系米人の書いた「千畝 in search
of Sugihara」(清水書院)を読みました。ものすごく面白かったです。これま
杉原千畝に対して抱いていたイメージが、根底からひっくり返りました。

私がこれまで杉原に関して抱いていたイメージというのは、だいたい以下のよう
なものです。

(1)彼はバルト海の小国に「領事代理」として派遣されていた。→大使や、大
国の領事のような地位につけるだけの学歴や閨閥をもたない人であった。

(2)彼が発給したのは、「通過ビザ」であった。→正式のビザを発給できるほ
どの権限、調整力がなかった。

(3)戦後は外務省を追われ、職を転々とした。→やはり有力なつてがなく、資
産もなかった。

・・・こういったような事実を総合していくと、欧州の片田舎、カナウスの小さ
な領事館で、必死の形相で押し寄せるユダヤ人達を見るにみかねて、「なんで俺
がこんな貧乏クジを、、、」「処分されたらどうしよう、、、」とかなんとかぼ
やきながらも、やはり困っている人を放っておけず、一人で夜更かししながらユ
ダヤ人達のパスポートにサインをし続けた、”実直だけどうだつのあがらない、
さえないノンキャリの好人物”というイメージが浮かんできます。多分日本人の
多くが、彼のことをそう思っているのではないでしょうか?少なくとも、ヤマっ
けたっぷりの商売人で、ナチスの出入り業者として安い労働力としてユダヤ人を
使っているうちに、自らの歴史的使命に目覚めていったオスカー・シントラーと
は全く別のタイプだと思っているに違いありません。

とぉころが、とんでもない!!

千畝関係の年譜には全く載っていませんが、彼は徴兵されてすぐ、ロシア語を買
われて予備士官学校へ回され、少尉に任官、その後も陸軍が消滅するまで予備役
にも編入されず、現役士官のまま外務省にも籍を置き続けるのです。これは極め
て異例のことです。
そもそも、彼が学んだハルピン学院自体が、広く軍や外交官に「ロシア通」の人
材を供給し続けた、いわば満州中野学校のような側面をもっていたようです。

さらに彼はハルピン時代に白系ロシア人と結婚、現地のロシア人社会では結構な
顔だったようです。そうした能力を買われて、彼は陸軍・外務省に加えて満州国
外交部にも籍を置くことになります。このころの直属上司は、後の外相松岡洋右
です。さらにやはり外相になる東郷茂徳とも関係がありました。「つてがない」
どころの騒ぎではありません。(まぁ松岡は病死し、東郷もA級戦犯ですから、
戦後の外務省にポストを確保するには役立たずの「つて」だったかもしれません
けど。)

そういう彼が、ソ連に併合される寸前のカナウスに領事として赴任したのは、ど
う考えても全く偶然ではありません。帝国の前途に大きな影響力をもつソ連の動
きを探るために、最前線に基地を構えたわけです。カナウスで彼は、亡命ポーラ
ンド人組織を手始めに様々な地下組織と連絡をつけ、ソ連の動きを探ります。し
かもカナウス領事館は、ベルリン大使館の指揮下にあり、時のベルリン大使は陸
軍の大島中将です。現役将校でもある彼がカナウスに赴任したのは、この点から
考えても、偶然どころの騒ぎではありません。彼は選ばれて、帝国の切り札とし
てカナウスに行ったのです。

そうした中で、彼は「命のビザ」を発給し続けたのです。そうすると、彼の行動
の全てに違った意味を見いだすことができるような気がしませんか?少なくとも
「うだつのあがらない実直な事務屋が、見るに見かねて・・・」どころの騒ぎで
はなかったことは明白です。

もちろんだからと言って杉原の行動の価値はまったく変わらないどころか、むし
ろもっとその真価を知られてしかるべきです。

風雲急をつげる欧州に渡り、ソ連ナチス(彼が雇っていたポーランド人の運転
手はゲシュタポに消されます。)、亡命ポーランド人他の地下組織と丁々発止で
渡り合った、一世の快男児、これこそが、杉原千畝の真の姿であったのではない
でしょうか?

しかもこの男は、自分がやってきたことについて、ついに一言も語らず、また関
係者にも一言も語らせることなく、全ての秘密を抱えたままで、墓場へ行きまし
た。幸子夫人がことさら人道的理由だけに焦点をあてて本を書いているのは、妻
にも知らせなかった故かもしれませんが、ただ一人夫の真価を知るいわば「共犯
者」でもあった夫人が、亡き夫の韜晦術に最後の仕上げをした、あっぱれな内助
の功なのかも・・・と勘ぐってみたくなります。