映画製作本数が多くて、何が悪い?★

1月31日
今日の日経最終面の記事が面白い。「ミニシアター、作品選びに苦悩」。映像機器がデジタル化で「格安」になったから、自主制作映画本数が「激増」して、作品を「上映しきれない」らしい/2000年前後が年間500〜600本の作品数、2014年は1184本に倍増。

なんでも、「知人友人に出演を依頼して人件費をケチれば、製作費300万円程度でできちゃう」らしい/ポケットマネーで簡単に映画が製作できる時代。さだまさしが趣味で映画「長江」作って破産しかけて、その後NHK御用達芸者になったというエピソードも今は昔。

特に地方のミニシアターは、「以前は5本の中から1本をセレクトして上映していたのが、20本から1本を選ぶような感覚。選び間違いがないか不安」「埋もれた才能を見逃さないか怖い」「2日に1本のペースで新作を公開している」状況

で、日経記事では「元々、本数が多い=多様性で、いいこと」だったのが「本数が多すぎる=果たして観客にとっても、映画界にとっても、いいことだろうか?」と「多すぎる現状に警鐘を鳴らす」記事になっている

「??」と思ったが、要は「一作品毎の上映期間が短くなると、口コミで評判が広がって尻上がりにヒットを伸ばす、の流れが起きにくくなる」「作品を育てる・監督を育てる、というミニシアターの機能が失われる」とのこと/でもキツイ言い方だが、「作品・監督を育てる」のが「ミニシアターの役目」か?

この件、ツイートの中にも「一定程度、本数を制約して、一定程度の予算を作品に集中させるようにすべき」的ツイートを見かけたが、そういうものなのか?「300万円作品が1000本な世界より、3億円作品10本の世界の方が望ましい」という映画関係者の意見は「正しい」のか?

「300万円で製作される映画」って、もはやプロ目指してないよね。本業がサラリーマン、な人が、貯金をはたいて「趣味」で映画取っている、そういう世界。本人は別にプロの映画監督になろうなんて思ってない。

そういうアマチュア作品が映画界に溢れ、映画作品をダンピングさせている。で、「映画でおまんまを食おうと思っている連中」が「お前たちのダンピングのせいで、俺たちがおまんま食えないじゃないか!!」といちゃもんつけている、それが今日の日経記事だろう

この構図、どっかで見たことあると思ったら、そうだケータイ小説の世界だった。別に作家を目指さないフツーの人が、ケータイで小説書いて、それをノベライズ出版したらミリオンセラー(例:恋空)/プロ作家志望な人からすれば、『趣味作家』に完敗した格好で、プライドがズタズタ

でも、観客・読者からすれば、『作り手がプロか?アマか?』なんてのは『どうでもいい話』であって、『面白ければいい』/『映画の作り手は、やっぱプロじゃなきゃならない。そうしなければ映画文化が続かない』は、プロの身勝手な思い込みだと思う。

コメ農家だって同じで、コメがうまければ『プロ』でも『セミプロ的なアマ』でもいい/ちなみに今の日本のコメ農業は、『プロ』(=専業農家)が少数派で、『セミプロ』(=兼業農家)が大多数/別に映画界だって、他に本業持ってるセミプロ監督の作品でも、いいじゃないか。

つまり映画を『商業映画』に限定する試みは『空しい抵抗』であり、むしろミニシアターは『アマチュア自費出版的作品』を積極的に上映する『ワナビーの自己満足充足ツール』にしちゃった方がいいのかも。『俺の自分史を映画にしてくれ、退職金の2,000万円あげるから』なシニアも増えるだろうなあ

2025年の、群馬のミニシアター『シネマテークたかさき』の上映作品。2月1日:『元群馬銀行安中支店支店長、●●太郎の自分史』、2月2日:『元高崎高校生物教師、△△次郎の『榛名山の四季』』、2月3日:『元ヤマダ電機営業部長、■■三郎の『賢い家電の見分け方』』

例えば『退職金2千万円のうち1千万円掛けて、人生の総仕上げに映画を製作し』、『残りの1千万円でミニシアターを数日間借り上げ、その映画を親戚友人一同に披露する』なんてシニアが出現したとして、それは果たして『間違っている』のだろうか?映画関係者的には『間違っている』のかもしれないが

2月1日
まあ今はユーチューブとかニコ動とかがあるから、そっちに皆作品をバシバシ投稿している訳ですが、『映画』というフォーマットだと、編集とか加えているので、ニコ動などの『垂れ流し動画』よりは視聴しやすくなる/ブログより『自費出版』の方が、編集人が関与している分読みやすいのと一緒

あと『出版』という『形』『儀式』が、シニア心をくすぐる訳です。『俺も本を出せた!!』/それと同じで、『映画館上映』という『形』『儀式』が、シニア心をくすぐる。間違いなく孫には自慢できる訳でして。

ということで、団塊世代が次々に『ワナビー映画製作』に走りそうな気がする。そうなると、映画の総本数は年間1,184本なんかじゃ済まなくなり、1万本を突破していく。映画関係者にとっては悪夢なシナリオ。

「映画関係者には悪夢なシナリオ」と書いたが、むしろ逆手にとって、ワナビーシニアを「カモ」にしちゃえばいいんですよ。「自分史映画の監督を引き受けますよ!!」と志願して、退職金のうち1千万円を掠め取っていく。

よく考えたら、カラオケって「歌を歌いたい」というワナビー欲求をマネタイズして、ここまで急成長したんだよなあ。それと同じで、ミニシアターも、人々の「映像化したい」というワナビー欲求に寄り添ってマネタイズした方が、ビジネス的には面白いのでは?

日経最終面に「最近は音大出身者が市井にあふれていて、アマチュア交響楽団のレベルがアップしている」と書いてあった。定年シニアで編成された交響楽団なんてのもある/昨日のツイート『映画の世界で、プロアマの垣根がなくなりつつある』な話がクラシック音楽でも存在してると実感

音楽大学って、『プロの音楽家を養成する』目的と言うより、『義務教育音楽教師を養成する』為の組織と理解している。なので、少子化で義務教育児童が減少するなら、音大の定員も削減すべきなんだろうなあ/『義務教育過程に音楽が必要か?』というそもそも論もあるが。

30歳前後で年収700万円、40歳以降で年収1,000万円な人を仮定してみる。その人の55歳時点の生涯賃金は、累計2.5億円程度になっていて、住宅ローン教育費を考慮しても、その時点で『早期リタイア』は可能

そういう『55歳までで2.5億稼いで早期リタイアなサラリーマン』(多分都心エリアでは10〜20%が該当)が、リタイア後に音楽の道を志したり、映画の道を志したりする社会ってどうだろう?一見すれば『生涯現役で理想な社会』だし、『若者の音楽家・映画志望者の芽を摘んでしまう』となる

仮に55歳シニアが早期リタイア後、音楽の道を志願したとして、報酬は『別に年間100万円程度で構わない』/他方、22歳の音大新卒は『年間300万円貰えないと、おまんま食えない』/ということで、早期リタイア者が音楽や映画の世界に進出すると、若者の芽を摘むことになる。

今後、クラシック音楽、J‐POP、映画、マンガ、小説の世界で、『経済的アドバンテージを持った55歳シニア』が、『新卒22歳若者を圧倒する』というのが日常になってくると思う。芸術サブカル分野の構造がコペルニクス的に転換される/55歳シニアも、75歳までに20年間は活躍できる

だから、今22歳で『小説書きたい』『映画作りたい』『音楽やりたい』な若者は、今デビューするのではなく、30年間は趣味を封印して、生涯年収2.5億円稼ぐことに邁進した方がいいと思う。それで、経済的パスポートを手に入れた50代半ばから芸術サブカル活動へ転身する。

ただ、20代にして『親・祖父母の遺産2億を相続した』というレアケースだと、若くして芸術サブカルレースに参加する資格が出てくる/よくあるパターンの『20代若者が、バイトしながら芸術サブカルの道を究める』な話、結局経済的余裕も精神的余裕もある50代に勝てないと思う。

戦前の芸術家とか文豪とか、結核なんかで30歳台・40歳台で夭逝しているケースが多い。正岡子規とか宮沢賢治とか。/実質的な活躍期間が20年程度しかなくても、立派に作品を遺せている/55歳での作家漫画家音楽家デビューでも、75歳までにの20年間で立派に活躍して作品残せるだろう。

自分が『資産1億以上貯めている中高年は、早期リタイアして文化を遺せ』と先月から繰り返しツイートしているのは、こういうことです。

まあ、50代でリタイアできて芸術サブカルに転身できる人というのは、さすがに世代人口の10%もいないだろうなあ。60代で転身できる人が20〜30%程度か。その場合は活躍機関も10年程度しかない。

今の50歳台って、戦前の40歳台程度の体力を維持しているからなあ。統計的にも、肉体年齢は10歳は若返っているというデータがある。