上昌広医師の「復興は現場から動き出す」(東洋経済)を読了。

実は上医師とはちょっとした知り合いであり、その活躍ぶりは震災前から知っていた。
氏は震災前から豊富な人脈を構築しており、今回の震災救援では
そのネットワークが開花した、という感じ。

ネットワークを最大限活用して獅子奮迅の活躍をされる上医師の活躍には
頭が下がる思いだが、
「国は現場が活動しやすくなるよう、規制緩和して現場に委ねるべし」という上医師の持論には、
半分賛意を示すものの、半分「引っかかり」を感じた。

確かに著書に記されているような
「県や医大側が、民間の活躍を疎ましく思った」ようなことはあっただろうし、
「活動の足を引っ張るようなこと」もあったと思う。

なので、いざ震災が発生した際には、国はできるだけ民間の活動を阻害しないようにすべきだと思うが、
一方で「今回の上氏らの活躍は、彼の類い稀なる能力・情熱・人脈があったから可能」だったのであり、
「普通の人だと、そこまでの活躍は不可能」なんじゃないか、と思う。

国が平時において震災対策の制度設計する場合に、
「上氏のようなスーパーマンの存在を前提として制度設計する」というのは、
結局不確実性(そのようなスーパーマンが出現する可能性の少なさ)に賭ける、
ということになってしまい、
国の目指すべき政策としては不適当なんじゃないか、と思う。

よく
「英雄が登場する時代は不幸」ということわざがある。
統治機構が安定し、社会問題が少ない時代というのは、
えてして「凡庸な為政者しか輩出しない、退屈な時代」だったりする。
しかし、政治が本来目指すのは、
「凡庸な為政者でも世の中が回っていくような制度作り」であり、
「英雄が出現しないと回ってゆかない、という政治制度は、どこかオカシイ」と思う。

上氏の活躍はスゴイが、反面、
「上氏が活躍しなくても、粛々と震災対応が出来るような体制を作り上げるのが、防災対策の根本」
という幹を、見失ってはいけない、と思う。

あと、これは自省の念も込めて書くが、
「社会の構成員が、様々な他ジャンルの人と交流する余裕がある社会」を構成しないといけないなあ、ということ。
この本に登場される方々は、いい意味で好奇心旺盛で、
他のジャンルの「人財」と積極的に交わろう、と意識されているし、又交われるだけの余裕がある。
(経済的余裕、というより、時間的余裕、肉体的余裕、精神的余裕)

しかし、例えば医療の世界などで、超過勤務が横行して、
「目の前の患者の治療が精一杯で、僅かの休み時間は仮眠するだけ」という医師ばかりだと、
上医師のような広い人脈の形成は望めない。

上医師のような広い人脈を社会の構成員に持たせ、
それを防災時対応の民間パワーに転用する、そういう社会の構築には、
構成メンバーに「心のゆとり」「時間のゆとり」がないと、なかなかなしえない。

自分の勤務先社員を見ていても、経済的ゆとりは若干あるのかもしれないが、
「他の世界と交わろう、という心のゆとり・時間のゆとり」を有する人間は、
数少ない気がする。
かくいう自分も、なかなかそのような心のゆとりが出来てこない。

どこかのブログで、
「北欧がボランティア大国なのは、社会構成員に心のゆとり・時間のゆとりが大きいからだ」
と書いてあった。
日本で「災害ボランティア」を育てるには、社会構成員のゆとり・冗長性を高めることが
肝要なんじゃないか?、と感じた。