電灯技術史

★明治:大口需要家があると、その近くに発電所を都度作っていた(電灯局)
★新聞社:動力電力の有力需要家
★国会消失により、4分の1の電力契約がキャンセルされた
★明治時代:火事が多かった(石油ランプ原因)
 →「100戸延焼」程度では火事のうちに入らず、統計外だった
榎本武揚:初代電気学会会長
 元々は技術者
木戸孝允:榎本の処刑を主張
 →大久保利通が「処刑すれば有能な人材を失う」として助命
★榎本:許されて駐露公使や北海道開拓使を歴任
 千島樺太問題を担当
★京都の「蹴上」・・・処刑場に向かう罪人が立ち尽くすのを、役人が「蹴り上げた」ことから
 その地名が付いた
★蹴上:日本初の商業水力発電
★江戸末期:大半の鉱山が衰退
 衰退鉱山の1つだった足尾銅山・・・生糸で儲けた古河氏が電力を用いて近代化して復活
★箱根電灯:水力発電
 →箱根の観光地化とともに水力発電知名度が上がる
★明治期:発電供給エリアが狭い
 例=吉原向け電気・・・深夜が発電ピーク
  一般向け電気・・・夜6〜9時がピーク
  動力電気・・・昼がピーク
 それぞれに発電設備設けると非効率
 →発電所の統合へ
 浅草発電所:初の「集中発電所
 高層煙突:なんと200m(東洋一)
 交流発電50ヘルツ
エジソンの交流反対
 ・・・既に直流に多大な投資をしていたため
エジソン社のテスラ・・・交流を反対されエジソン社を退社、WHへ特許を売る
★WHにより苦境に陥ったエジソン
 →モルガン資本の救済によりGE設立
★神戸電灯、京都電灯・・・東京電灯の技術支援受ける
★大阪電灯:東京電灯の支援を受けない(独立心強い)
★大阪電灯:東京電灯に先駆けて交流を実現(60ヘルツ)
 これが浅草発電所での交流発電を促した
日露戦争前後・・・「動力革命」
 蒸気力→電力
タングステン電球の普及(炭素電球の3分の1の電力消費)
→この2つの要因により、電力需要急拡大
 これに応えるために水力発電が本格化
★日本初の高圧送電:広島水力電気(軍需用)
田中久重の海軍向け工場→海軍の方針変更(自前の工場を持つ)で経営難
 →三井家が田中製作所を引き取る(後の東芝
★当時の国内メーカー・・・大学実習生に設計させるほど、技術水準が低かった
★明治期:感電事故多発
水力発電所が乱立
 →あちこちで渇水期に水不足に
 「交通整理」が必要になる
 →逓信省が全国調査
水路式発電所からダム式発電所
★日本最初のダム発電所
 ・・・北海道・野花南ダム(富士製紙江別工場の電力用)
 ↑三菱鉱業が反対(三菱も発電を計画していた)
 結局、電力は共同利用に
★黒部・木曽・天竜水系・・・50・60ヘルツ共用の発電所
★昭和9年:揚水式発電所スタート
満州事変後:発電機等が完全国産化される
終戦直後:火力発電所が空襲でやられたのみならず、
 もともと火力・水力の発電所の耐用年数が来ていた
 (もともと更新期だった)
佐久間ダム:工事の機械化→一気に山奥の高出力地の水力開発進む
 (奥只見、田子倉、御母衣、黒四)
佐久間ダムを通じてゼネコンも技術を近代化
★火力発電:1号機は輸入、2号機は国産、の路線
★昭和25年:マイクロ波利用が民間開放
 →電力各社が利用