読書ノート・鉄道忌避の誤り

★鉄道忌避:殆どなかった
★岡崎、調布、府中に「忌避した」との伝説あり
★近世交通史専門家が忌避事実を認定してきたのだが、実は確たる資料なし
★そもそも「鉄道史」が学問として確立されたのがつい最近
 鉄道:鉄道技術者による閉ざされた世界
 鉄道&歴史というのは、学際的分野
★因みに日本は軍事史も未発達
★「鉄道=オタク」という偏見が、鉄道史を学問対象にさせなかった
★鉄道史:まずは経済史学が、経済のテーマの一つとして
 鉄道史を経済学的にアプローチ
★経済学の中でもマルクス経済学は理論先行(現場主義でない)
 →現場の一次文献をチェックする、という態度が希薄
★脱マルクス主義的鉄道史の第一人者:原田勝正(文献主義)
★高度成長で自治体が豊かになる
 →税金で以って、「地元史」を編纂する動き
 →鉄道史を本格研究
★龍ヶ崎にも鉄道忌避伝説あるが、単に地形的理由
★イギリスで最初の鉄道反対運動
 「狐狩りができなくなる」と伯爵が反対
★イタリア:教皇領の鉄道建設は、他領土より遅れる
 ・・・やはり教義が保守的だからか?
★中国最初の鉄道:馬車用道路の名目で開通
★イギリスの鉄道:欧州大陸・北米大陸の鉄道より運賃が高い
 (プロイセンの3倍、アメリカの5倍)
 ・・・反対派説得して用地買収するのにコストかかる
★鉄道誘致文書(古文書)は見つかりやすいが、鉄道反対文書は、
 仮にあったとしても、見つかりにくい
 「反対文書が見つからない」からと言って
 「忌避伝説はウソだ」と結論付けられないところが、難しいところ
甲武鉄道:境や立川が積極的に誘致
★上野原集落:標高250m
 中央線:190m
 →集落の下に作るしかない
 (なのに忌避伝説できる)
甲武鉄道小仏峠を避け、橋本経由も検討
 また笹子峠を避け、吉田を通るルートも検討
笹子峠アプト式の案も
★結局、距離短縮のため、笹子トンネル建設
 →なぜか「都留が鉄道忌避」と伝説化する
★雨宮敬次郎が甲武鉄道を(自身の出身地の)塩山に誘致した、の説
 実際は、勾配緩和の関係で塩山経由にしただけ
 (一直線だと勾配が急になる)
★明治時代の官僚:権限強大
 多少の反対運動があっても、建設を強行したはず
豊橋〜名古屋間:名鉄旧東海道筋を通っている
★岡崎が忌避したから岡崎を経由しなかったのではなく、
 蒲郡が誘致したから、東海道線は岡崎を経由しなかった
 (豊橋蒲郡〜岡崎〜名古屋だと、ジグザグになってしまい、距離長くなる)
 名鉄は岡崎を通る代わりに、蒲郡を通っていない
★明治初期:国土の標高調査が未調査
 →土木技術者が、実際に現地に足を運んで、標高勾配調査するしかなかった
★岡崎集落:矢作川大平川に挟まれている
 今の岡崎駅の位置なら、渡河は1回で済むが、集落を経由すると2回渡河が必要
★藤枝・吉原:集落から鉄道が離れている
★馬車鉄道:反対運動起きやすい(糞尿)
立川駅:当初北口だけだった→砂川村に有利
 南側の立川村には不利
 砂川村が用水等を鉄道に提供したから?
★立川の多摩川橋梁:「洪水時に危険」と住民から異議が出る
★河川水運:大正時代まで存続(鉄道より安価だったため)
常磐線:元は川口で分岐し、流山を経由する案があった
 (荒川渡河を避ける)
常磐線の建設主目的:常磐石炭の輸送
★上野から千住を通る案:短絡ルートだが、市街地を通ることになり、
 高架化を余儀なくされる(コスト大)
★田端から千住へ向かうルートなら市街化されていない→これで建設
★新橋駅:仙台藩などの屋敷跡地
上野駅寛永寺の末寺を廃した土地
★初代横浜駅(現桜木町駅)・・・埋立地
★頭端式駅:市街地になるだけ近づけることができる
 通過型だと市街地から離れがち
★明治初期の軍部:軍事強化が疎かになる、として鉄道整備を敵視
★文明開化に反対する守旧官僚も鉄道に反対
★軍部(兵部省):浜離宮(海軍用地)の拡張を欲す
 →今の新橋駅付近を欲した
 「新橋駅用地は、東京への海からの攻撃から守る要衝。
  そこを軍施設でなく鉄道用地にするとは何事か」
兵部省改め陸軍:西南戦争で鉄道の輸送能力を認める
★陸軍:海軍を全く信用せず
 日本周辺海域の制海権が全て敵に落ちるという極論状況を想定して、
 「鉄道が唯一の輸送手段、だから内陸に」
★当時の陸軍:鉄道リテラシーが低い
 「内陸に敷設するのがいかに難工事か」
 「仮に内陸に敷設できたとしても、それが輸送力の障害になる」
 ということを理解してなかった
★井上勝:あまりにも陸軍が「鉄道に関してアホ」なので、
 全く相手にしなかった
★鉄道官僚の「東海道筋を避けるべし」
 理由は「水運に負ける」
 →水運が存在しない中山道経由を考えたが、
 工事が難工事になるので、やむなく東海道筋経由に
 「陸軍の反対で中山道に・・・」は俗説
★千葉:利根川や外洋の水運が発達している
 →その分、鉄道の敷設は遅れる
上野駅:手狭→貨物機能を分散へ
 秋葉原貨物駅の誕生
 日本鉄道は「上野駅構内の延長」という建て付けで「秋葉原側線」を申請
 →神田川の水運とリンク
★1889東京市発足
 ・・・東京府知事が市長を兼ねる体制
尾道:狭い市街を鉄道が貫通せざるを得なかったため、実際に反対運動あった
 (→押し切った)
★水田地域:鉄道築堤が洪水時に滞水する、と反対される
★架橋技術:未熟
 多摩川ですら、明治6年まで架橋できず
 六郷橋・・・1600年に架橋するも、何回も流されたので、1688から渡し舟化
★架橋への不安に起因する反対は多かった
 橋脚が洪水時の川幅を狭めるのでは?との不安
 「橋脚がない吊橋にしろ」と要求される
★農道の寸断や、水利への影響を懸念しての反対運動も多かった
★硫黄鉱山:戦後石油副生硫黄が主流化したために閉山
★伊勢参宮鉄道・・宿場町松坂が反対した確証があり
 「軍事用でも物資輸送でもない、物見遊山の鉄道は、富国強兵にふさわしくない」
西武多摩川線・・三鷹天文台の観測支障になる、と反対される
★なお、今では三鷹天文台では観測していない(乗鞍でやっている)
★「良田が鉄道用地に取られて、日本全体で五万石の減収になるから反対」という反対論もあった
★日本の中央歴史学・・・地方史軽視
 地方史は地元の教師とか名士によって研究されてきた・・・研究メソッドが素人的
 →又聞きの忌避伝説を事実として扱う
★「蒸気の煙が養蚕に害」の迷信
 ・・・本当にそのような迷信はあったのか?
三鷹村より武蔵野村の方が遅れていた
 三鷹:桑園あり
 武蔵野:桑園なし
★小中学校の郷土史副読本に、しっかりと「忌避伝説」明記される
 多くの人が忌避伝説を事実視する一因に、郷土史副読本の存在
 郷土史副読本に記載された事項が、事実上定説と化してしまう
 その割には、副読本記載事項の検証作業はルーズ