【7月18日→8月9日 ツイッター通信 団地論】

8月3日
三浦展の戦前からの高級住宅地本を読書。最近のタウンウォッチャーは三浦展と、高度成長期の団地に強い原武史がいい
三浦展原武史の都市論は読みごたえあるが、是非バブル期から最新のマンションやニュータウンも評論して欲しい。この二人の広尾ガーデンヒルズ論とか湾岸マンション論とか野村オハナ論とか飯田のいい家論とか聞いてみたい
★のらえもん様の湾岸マンションブログも、20年30年後には「貴重な都市評論」として評価されてる気がする
原武史重松清の「団地の時代」が最高に面白い。西武沿線の70年代の原少年は、「団地の方が鉄筋で近代的」と洗脳され、木造戸建を馬鹿にしてた。しかしその後東急沿線に引っ越し、東急沿線では「戸建の方がマンションより高級」と知りカルチャーショック受ける
★この「団地の方が近代的で、木造住宅より進んでる」という感覚、何を隠そう、自分が小学生時代に感じてた感覚。阪急が南茨木に新駅作り、マンション数十棟建てた街の小学生は、無意識にそう感じてた
重松清が「多摩ニュータウンでは、駅から近い児童と駅から遠い児童で、差別意識が生じる」と受け答えしてたのもよくわかる。要は駅から近い団地は割と高所得ファミリーで、遠いと低所得ファミリーになる、と小学生も理解してた
南茨木でも、駅前ハイタウンが最上位で、そうでないハイタウンは中位、みたいな意識が、子供心にあった気がする
南茨木界隈では、阪急の「ハイタウン」シリーズ以外に、他のマンション(例:長谷工)も少しあった。だがハイタウンの子供が「多数派」で、他のマンションの子供はマイナリティ感を味わっていた
★原氏曰く、小学生から見たら団地は「小宇宙」。団地の外に様々な世界があることを、当時の団地っ子は知らなかった。特に原氏の滝山団地は、バス便団地なので小宇宙感が凄かった
★この「小宇宙」感は南茨木にも漂ってた。但し南茨木はハイタウン7割他のマンション1割その他戸建アパート2割。滝山団地みたく団地10割じゃなかったから、多少宇宙内の多様性はあったが
★原少年が、小宇宙から自転車で脱出して、「団地以外の世界がある」と悟るシーンも、自分は実によくわかる。自転車で南茨木から茨木市駅辺りに行くと、「南茨木が標準的な街なんじゃなく、茨木市駅の方が標準的で、南茨木の方が異端」なのがわかる
★又、原少年は中学受験の電車塾通いで「小宇宙からの束の間の脱出」を味わったが、これもわかる。自分は南茨木から西宮北口に電車で通ったが、「外様」の阪急京都線と「保守本流」の阪急神戸線の違いが皮膚感覚でわかった
南茨木ハイタウンの子供は、なんとなく「ハイタウンは団地じゃない、マンションだ」的意識があった気がする。「自治体や公共機関が作った画一的安上がり団地じゃない、阪急が作ったハイクラスマンションだ」的意識。
南茨木ハイタウンは東京からの転勤族が多い街だったが、東京からの転校生に「南茨木ハイタウンって、要は団地でしょ」と言われて、自分は「団地じゃない!」とムキになって反発した記憶がある
★要は、1000戸以上クラスの大規模マンション群だと、小学生間に「そのマンションの一員か否かで」断絶を産みがちだが、そういう社会学、児童心理学の研究は殆ど手付かずでは?と言いたい。まあ首都圏近畿圏固有の課題でしかないが
★因みにプラウドシーズンだかプラウドマンションだかの子供が、先生に「僕プラウドに住んでるんだ」と自慢してた、というエピソードを聞いたことある。「プラウドの子供が、レーベルハ●ムの子供をいじめる」なんてことがあったりして。
★これは以前にも書いたが、当時としては関西最大級の民間マンション開発であるハイタウンに小学生時代に住んでいた、それが今自分が不動産屋の端くれになってる一因だと思う
★阪急と言えば電鉄系郊外開発の元祖だが、自分たちの小学中学時代は、そんなに不動産開発してるイメージなかった。夕刊とかに宣伝してるのは京阪樟葉ローズタウンとか南海林間田園都市とか近鉄あやめ池とか
★昔の不動産広告と言えば、三井のベルパークシティは、恐らく関西初のマンションTVCMじゃないか、と思う
★これは異論ある人もいるかもしれないが、自分が高校時代まで、バブル直前まで、超高層マンションの比率では、関西は東京以上の超高層マンション先進地だったと思う。芦屋浜シーサイドタウンとか武庫川レインボータウンとか、あれだけの超高層マンション群は、当時東京にも少なかったのでは?
★東京で超高層マンションが認知され始めた、市民権を得たのは、西戸山タワーとか大川端リバーシティの頃からでは?
★昔は国鉄の113系快速から、芦屋浜シーサイドタウンを見てたなあ
8月4日
原武史重松清対談で、「ひばりヶ丘団地を当時の皇太子が視察に来て、それ以降『皇族視察が来るくらい、時代の最先端の団地だ』的プレミアムがひばりヶ丘団地に付いた」と言うエピソードが面白い
★「皇族の視察」と言うのは、ある意味で「国家の関心対象、アジェンダセッティングがどこなのか?」を分かりやすく可視化する作用がある。60年代は、国家意思は団地大量供給に向かっていた、その象徴が皇太子視察
★逆に言えば、現代で湾岸タワーマンションを皇族が視察する、なんてことは想像しづらい。「湾岸タワーマンションは、国はノータッチ」という国家意思の表れ
★まあ現代なら「サ高住を皇族が視察する」なんてことはあり得そう。何故ならば「サ高住を2020年迄に60万戸整備する」のが国家意思だから
★「西武沿線の大規模団地はソ連的」は原武史の持論だが、60年代の時代背景を考えれば納得できる。60年代はまだ米ソ冷戦は「互角」で、「ソ連の方が科学的」と評価する人もいた。スプートニクショックもある。
アポロ計画の成功は1969。60年代は最後になるまで、「科学的には米ソは互角か、ややソ連がリード」というムードがあった。で、ソ連が「合理的な5階建て団地建築システム」を確立させ、それを日本住宅公団が導入した
★80年代になって、団地が「先進的、科学的」じゃなく、「画一的、貧乏臭い、ダサい」と一気にネガティブイメージに墜ちたのは、本家のソ連がブレジネフで停滞して、「米ソ科学競争で敗色濃くなった」のも無関係じゃない
★「60年代は団地の時代、70年代はニュータウンの時代、80年代は金妻たまプラの時代」と言う解説があった。ならばさしずめ00年代は「タワマンの時代」と言えそうだが、では90年代は何の時代だったか悩む。とりあえず「パークホームズの時代」としておこう
★「パークホームズの時代」とは、「民間マンション住まいがポピュラーになった」という意味と「団地やニュータウンのような巨大開発じゃなく、100戸クラスの身の丈開発が受け入れられた」という意味と「住宅双六の上がりが戸建じゃなくマンションになった」の意味がある
★「パークホームズの時代」から「タワマンの時代」への変化の意味は、「都心回帰」「超高層の容認」「数十戸、100戸クラスじゃなく、大規模共用施設が評価されるようになった」と言うこと
★「60年代団地のイメージアップに皇族視察があった」は前述したが、70年代にはNHKに「少年ドラマ」と言うのがあって、それが多摩ニュータウンが舞台だったらしい。80年代は言わずと知れた金妻。
★「タワマンの時代」と言うのは、これまたヒルズ族ホリエモンが象徴してる。90年代の「パークホームズの時代」が弱いのは、時代を象徴するドラマやイベントが無いこともある。
★もっとも、マンガやアニメなどのサブカル世界では、恐らく90年代には「パークホームズみたいなマンション」が舞台になることが増えてると思う。ただ、話題作がない・・。話題作がない点が、いかにも90年代らしい
★なら、10年代は何の時代になるか?私見だが、「オハナの時代」になりそうな気もする。「サ高住の時代」になったりして
★オハナは建築費やランニングコスト,更には販売手法の考え方が、極めて「科学的、合理的」。50年前に「科学的」集合住宅をソ連から日本住宅公団が導入したのに似ている。つまりオハナシリーズは「50年の歳月を経て甦った団地」。奇しくもオハナも西武沿線に多い。
★是非現代に甦った団地、もといオハナシリーズを原武史先生に社会分析して欲しいが、その前に原武史先生には、(先生が小学生まで過ごされた)滝山団地近辺に大量建設されているパワービルダー、飯田グループ的世界を分析して欲しい。
★「60年代は団地の時代」と書いたが、ハイエンド層を眺めると、ヴィンテージマンションはこの頃から出始めてるんだなあ。
★「何故西武沿線に団地が多いか?」について、原重松対談では詳述がない。私見だが、西武資本、コクド資本、堤資本から見たら、西武池袋線西武新宿線も「外様」だったからでは?堤資本から見たら保守本流西武多摩湖線
★戦時に紆余曲折があって西武池袋線新宿線も堤資本傘下になった。元はどちらかと言えば東武(根津資本)に近かった。根津育英会武蔵高校が練馬にあったりする
★旧武蔵野鉄道(池袋線)が、戦後堤資本から「独立」して自主経営していたら、独自に沿線を自力開発して、あまり団地を作らせなかったかもしれない。「独立」の実例は、大東急から独立した京王小田急京急の実例がある
★戦時合併に対し、西武池袋線西武新宿線以外の関東民鉄は戦後「自主経営権」を取り戻したが、西武2線だけは自主経営権を取り戻せなかった。だから団地の標的になった/何故西武2線だけが自主経営権回復に失敗したのか、興味ある
★実は関西も似たような感じ。阪急は京阪を戦時合併し、戦後京阪本体の独立は容認したが、京阪傍系の「新京阪」は独立させなかった。これが今の阪急京都線。阪急の中では京都線は傍系だが、その傍系路線に南茨木ハイタウンという「団地」があるのは偶然か?
★原重松対談で、久米川団地辺りまでは、5階建の大量建築技術が未確立だったが、滝山団地頃になると、ソ連のノウハウで5階建団地の大量建築が可能になった、とある。恐らく、鉄材大量生産や流通の整備、鉄筋建築が判る設計者や現場監督などのマンパワーが揃い出した、と言うインフラ整備もある
★ところが原少年は、70年代に出来始めた多摩ニュータウンが、10階建て程度でエレベーターがあることを知り嫉妬する。「エレベーターがない高さでは最高層(5階建)」となってしまった滝山団地は、ある意味不幸。エレベーターがないデメリットを一番甘受しなきゃならなくなった。
★滝山団地の5階建時代から、更に建築技術が進み、又高層建築(と言っても10階建程度)が判る設計者や現場監督が揃い出したから、多摩ニュータウンでは10階建辺りが標準になる。エレベーターが街中に普及し始め、価格がリーズナブルになった、という点もあるかもしれない
★逆に言えば、滝山団地などの「大量の5階建団地の出現」で、エレベーター無し5階建の不便さが知れ渡るようになり、その反省から「団地にもエレベーターを付けよう」「どうせエレベーターを付けるなら10階建てにしよう」となった面も、あるのでは?
★これは私見だが、「クレーン車の普及」が滝山団地などの「5階建団地」の大量建築には不可欠だったと思う。この辺、「集合住宅の建築工法史」な書籍があれば読んでみたい
★話を戻すと、滝山団地時代は、階数によるヒエラルキーは余りなかった。4階5階住民は、眺望の代わりにエレベーター無しの不便さを甘受するしかなかった。だからどの階の住民も平等、まさにソ連
★ところが多摩ニュータウンでは10階建てが出てきて、同時に「階数ヒエラルキー」が出現した。多摩ニュータウンは、「団地平等幻想」を否定。実は南茨木ハイタウンも11階建てで、階数ヒエラルキーがあった。
★原重松対談で、「団地やニュータウンは、建築学者などの格好の実験場」というくだりがある。実験するのは建築だけじゃなく、例えば児童行動学に基づく「最新の児童遊具」とかが児童遊園に設置されたりする
★今の大規模マンションとかで、提供公園に「最新の児童心理学に基づく遊具」が設置されたりするのかな?室内だと、「アタマが良くなる間取り」とかあるが。
★集合住宅にも「流行り廃り」があるし、ある程度「社会実験」的性格もある。滝山団地の5階建団地は失敗作。50年代のトライスター型団地、いわゆる「スターハウス」も影をひそめた
★阪急の南茨木ハイタウンは、これは東京の人には判らないだろうが、「壮大なスキップフロア型マンションの実験場」だった。通常のハイタウンは11階建だが、エレベーター停止階は1・4・7・10階だけ。停止階以外の住民は、停止階からワンフロア階段で上がるか下がるかする。
★阪急がハイタウンでスキップフロアを大々的に導入したのは、「エレベーター停止階の中住戸以外は、皆両面通風になる」メリットを重視したからだろう。だがその後スキップフロアマンションを見かけないのは、「スキップフロアは失敗」とマンション界が総括したからか?
★「トライスター型は廃れた」と前述したが、湾岸スカイズで見事に復活する。同様に、スキップフロア型マンションも、華麗に復活したりしないかな?スキップフロア型マンションで小学生時代を過ごした中年の妄想だが。
★原重松対談にあるが、丘陵を切り開く形式のニュータウン開発は、東京より大阪が先行した。大阪では60年代にニュータウンが千里に出来たが、東京では70年代の多摩ニュータウンまで待たなければならなかった。
★東京が大阪より遅れた一因は、一つには東京は60年代は丘陵を切り開かなくても、平地に団地用地を確保できた、という面もある。又千里ニュータウン開発は万博とセットだから、意図的に丘陵開発した面もある
★理由は何にせよ、日本初のニュータウンが東京じゃなく大阪だったことを、もっと大阪人は誇りに思っていい。ニュータウンという空間を利用して、いろんな文化や技術が生まれた。ローソンやダスキンニュータウン南端の江坂で育ち、世界初の自動改札は阪急千里線で生まれた。
スタジオジブリって、「三多摩」が好きなんだな。トトロは西武団地が出来る前の西武の世界で、「耳を澄ませば」は聖蹟桜ヶ丘。確かに「東急的郊外」はジブリ舞台とはミスマッチだが、何故だろう?
★@Tokyo_of_Tokyo 東京にもスキップフロア型は多かったんですかね?自分が大学で上京した時にはあまり目撃してないんですが。
★いわゆる北側に共用廊下を背負うマンションの場合、北側の部屋はなんとなく暗い、プライバシーが気になる、思いっきり風を通せない、というデメリットがある。スキップフロア化による北側採光確保は一つの対策ではある。
★原重松対談で、「自分たちの世代は、ドラマ『岸辺のアルバム』で、水害の怖さ、低地の怖さを肌感覚で知っていて、だから高台への本能的憧れがある」と書いてるが、『岸辺のアルバム』は、団塊ジュニアは見てないんじゃないか?だから団塊ジュニア世代は低地でも湾岸でも本能的抵抗感がない