漱石「道草」は元祖少子化推奨文学

7月12日
夏目漱石『道草』をそろそろ読み終わる/結構読破にかかったな。2週間ほどかかったな/1日にせいぜい10分とか20分しか読んでなかったから。溜まっていた録画の処理を急いだからなあ

例によって、漱石作品から明治の社会風俗コメント/『帽子』というのは、金持ちのアイコンだったんだな。『それなりの身分』の人は、帽子を被っているのが当時のスタンダードで、帽子がないのは、言ってみればドレスコード違反だった

家の普請の監督を施主(つまり、素人)がやっていたのが明治時代。まあ棟梁は存在していたのかもしれないが、現代みたいに「住宅メーカーの工事監督(つまり、プロ)が、工事の監督をしていた」社会とは全然違ってる/逆に言えば、一般施主側も、それなりの建築リテラシーを有していたのか?

明治の前半は、結婚する際は、行政の長である『区長』に『願書』を出す必要があった、と『道草』に記載されている/これって、明治も前半は、結婚は戸主の一存だけでは成立せず、役所が認めなければ婚姻を許可しなかった、ということなのか?/この辺の経緯をネットで検索しても、うまくヒットしない

主人公の姉が、滋養の為に、毎日牛乳を飲んでるくだりがある/明治時代、牛乳は『滋養食品』という位置づけであったことが、よくわかる/確か、夏目漱石の実家は、東京で初めて乳業を起業したんじゃなかったっけ?当初は外人向けに商売していたが、日本人にも滋養食品として売り出したのか?

漱石作品は、結構当て字が多い。マツタケ、つまり『松茸』と書くべきところを『松竹』とか。

和服・反物を品定めするシーンがある/庶民は兎も角、有産階級だと、反物を見て『これはいい反物だ』と判別できる『反物リテラシー』を有していたんだろうなあ。現代だと殆どの日本人は反物リテラシーなんて存在しない

『道草』の登場人物は、まあそれなりの階級の人間ばかりだが、これが赤痢とか脊髄病とか喘息とかでバタバタ倒れたり死んでたりしている。漱石自身が胃潰瘍もちだったが/前にもツイートしたが、明治時代なんて、平均寿命がせいぜいい40歳台だったからなあ

大正から昭和になって、さすがに赤痢とかコレラとかの脅威はなくなったが、結核だけはしぶとく残り続けた。当時の人は、若い人でも、『結核で早世するかもしれない』という可能性を前提に人生を組み立てていた/早世の可能性を前提としているのだから、『戦争で早世』とは、早世要因が一つ増えただけ

それが、抗生物質の進展で、結核を『退治することに』成功した/それはつまり、『人生において、早世を懸念する必要がなくなった』ということです/そうなると、若者が早世する唯一の要因は『戦死』ということになる。結核治療法発見前と後では、早世の意味、そして戦死の意味がガラッと変わった

戦前だと『どうせ結核で死ぬかもしれないんだから』と割と社会的に戦死も受容されていたのが、結核治療法が見つかったら『戦死で想定外の早世をされるのはヤダ』と反戦ムードが一気に盛り上がる。結核の根絶、つまり早世懸念の根絶と、反戦運動の盛り上がりとは、深い相関があると思う

道草の主人公の妻が出産するが、その産婆は母親の代からの産婆という設定/当時は『かかりつけ医』ならぬ『かかりつけ産婆』が一般的だったんだろう。娘が母の元から遠距離に移住しないのなら、先代で使った産婆を使う方が、安心感がある/出産傾向は母娘で似るだろうから、母での出産知見が娘に使える

産褥熱が云々という記載があり、『???』となった/産道に傷がつき、そこから破傷風菌等が侵入して発熱するのが産褥熱なんだな。勉強になった/衛生状態の悪い当時、出産による母体死亡事故の大半は産褥熱が理由だったらしい/どの時代に産褥熱が克服されたのか、これまたネットで検索しても判明せず

『道草』のテーマは、俗に『片付かないもの』ということになってる。文庫の解説にも、アマゾンの読後レビューでも、そうなっている/親類縁者が寄ってたかって、主人公にカネの無心にやってくる/確かに、カネをせびる親類縁者は、『片付かない』代表例だろう。/だが、『片付かない』のはそれだけか?

道草では、何人もの縁者がカネの無心にやってくる。その描写は面白いし、一見それがメーンに見える/しかし敢えて自分は違う読後感を提示したい/カネに無心に来る縁者の描写とともに、漱石は執拗に我が子の出産シーンの『おぞましさ』そして赤子の『異様さ』を克明に描く。そこには愛情のカケラもない

実は、道草の作品で、最大の『片付かないもの』は、カネに無心に来る縁者じゃなく、『グロテスクな我が子』なんじゃないのか?それが隠された最大のテーマな気がする/カネに無心に来る縁者だけ描けばいいのに、あそこまで出産シーンを描くのは、そうなんじゃないかな?

子供を『愛しいもの』でもなく『富国強兵の道具』でもなく『将来自分を養ってくれるもの』でもなく、単に『グロテスクな存在』『片付かない存在』と言い切った漱石は、100年後の少子化社会を見事に予言しているではないか?現代社会は子供は『片付かない存在』だから、出生率が下がる

夏目漱石『道草』を『単なる親類縁者にタカられる、気の弱い大学教授の物語』という安直な解釈をしてるようではダメ。『子供の存在意義に疑義を呈した、少子化のルーツな小説』と定義すれば、その歴史的価値はものすごいのでは?

あと、夏目漱石「道草」のたかられっぷりを見ていると、「現代なら、弁護士が対応する案件」な気がするが、弁護士が民事の金銭トラブルに関与するようになったのは、いつの頃からか?漱石存命時には、そもそも弁護士は殆どいなかったのか?いても刑事案件しかやってなかった?

自分の小説の読み方はヒトとはちょっと違うから、文豪の名作を読んでも『これは少子化のルーツだ』とか『産褥熱はいつから?』とか『民事に弁護士が介入するようになったのはいつから?』とか、そういう方向に読書感想が向ってしまう