刑罰の目的認識のすり合わせなき裁判員制度の危険性

http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060315
>殺人事件の被告が少年だった場合、市民の4人に1人が
>「成人よりも刑を重くするべきだ」と考えている−。
最高裁司法研修所は15日、市民と裁判官を対象に実施した量刑意識に関する
>アンケート結果を発表、両者に大きな隔たりがあることが明らかになった。
>調査は2009年春までに導入される裁判員制度に向け、量刑の「市民感覚」を
>探るため実施。全国8都市の市民1000人と刑事裁判官766人が対象となった。
>殺人事件を素材とし、39の量刑ポイントについて意見を聞いたところ、
>違いがはっきり分かれたのは少年事件。裁判官は「軽くする」が90%を超え
>「重く」はゼロだったが、市民は約半数が「どちらでもない」を、
>25.4%もの人が「重く」を選択した。将来の更生のため刑を軽くするなどの
>配慮がある少年法を前提とした「裁判官の常識」が通用しないことが浮き彫りになった。
>3月15日共同通信
ここのkechack様の分析が秀逸

刑の目的としてkechack様は4つに分類されている。
応報刑主義(仇討ち代行論)
目的刑主義・一般予防論(抑止効果を期待する)
目的刑主義・特別予防論(犯罪者を一般社会から隔離することにより、犯罪を防止する)
教育主義(更生させる)

他のブログでは、
「なぜ一般市民は少年犯罪に必要以上の刑を望む、という回答結果が出たのか?
 設問が悪いのじゃないか?」という分析もあったが、
http://d.hatena.ne.jp/hidea/20060315
これについては、
「少年はその男性ホルモンの量から他の世代よりも再犯率が高い、と一般市民には
思われており、再犯を防止するために、
『成年男性よりも長期間の間刑務所(少年院)に隔離したほうが、
 自らの安心につながる』と一般市民は考えたのではないか?」と分析している。

つまり、裁判官は刑の教育主義(およびその考えをベースにした少年法)に依拠しているが、
市民レベルでは、既に「刑には教育効果は到底望めない」と見限っており、
むしろ「隔離効果を期待している」といえよう。

刑の教育主義については、どれだけ効果があったのか、キチンとした
社会的分析がなされていないため、裁判官は「教育効果があるハズ」というドグマで判決を行い、
週刊文春やネット市民は
「はなっから教育効果なんてない、
あんなのは矯正官が自己の存在意義をデッチ挙げるための方便」
と思い込んでいる。

http://d.hatena.ne.jp/dr_y/20060315
これはピント外れ
>「少年にこそ厳罰を」が無視しえない「市民の声」だとしても、
>その傾向をそのまま実際の量刑に持ち込んでいいのかは別問題で、
>むしろその「感情」に法の言葉で説得を試みることが、
最高裁の責任であるような気がしている。

まずは教育効果についての検証が先決でしょう。
市民の「少年に重罰を」との声には、応報論的な「感情」もあるが、
「隔離効果」による自らの安全確保、という実利もあるのです。

このまま刑罰についての基本概念が統一されないまま、裁判員制度を導入したら、
果たしてマトモな裁判ができるのか?

昨日の日経には
裁判員の模擬裁判では、構成裁判員によって刑に大幅な格差が生じた」とある。
裁判員によっては教育刑的考えで少年に軽罰で済ます人もいれば、応報刑的考えで
重罰を科す人もいるだろう。

裁判を受ける側にも「公正な裁判を受ける権利」がある。
職業裁判官は、その人生を裁判に掛けているので、変な判決は出せない。
たとえ変な判決そのものを理由として昇進が遅れなくても、
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=41506&pg=20060316
のように「迷裁判官」として実名で揶揄される。

しかし、裁判員は、自らの刑罰観そのままに、「刑罰相場」にかかわらず
感情のままストレートに判決を出してしまう可能性がある。
裁判員は身の安全のためにその住所氏名は明かされない。
なので、判決に責任を持つ必要がないのである。