ネット・パソコンブレーク73・ブログ時代のハブサイト

ネット・パソコンブレーク73・ブログ時代のハブサイト

(なんでも掲示板 06年07月 投稿済)

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ブログ時代におけるハブサイトとは 投稿者:スルッとKANTO 投稿日: 6月 2日(金)12時44分18秒


小生がウェブを始めた2000年ごろは「ハブサイト」というのがあったと思う。
阪神電車に関するハブサイトミスチルに関するハブサイト
パタリロに関するハブサイト・・・

例えばガンバ大阪について語りたければ、そういうハブサイト
見つけて(検索エンジンで簡単に見つかった)、そこでトークすれば良かった。

ハブサイトも、数としてはそんなに多くない(4,5箇所程度)なので、
ファンが複数サイトに不必要なまでに分散する、ということもなかった。

というか、
ハブサイトの常連として発言していれば、自分でサイトを作る必要がなかった」
ので、不必要なまでにハブサイトが急増しなかったのである。

しかし、ブログ時代になって、ハブサイトはブログの海に埋もれてしまった。

例えば福知山線事故について語ろうにも、Google神は、
「1日だけ福知山線事故を触れただけのブログ」を選び出してきてしまい、
鉄道ハブサイトを探すにも骨が折れる。

しかももっと問題なのは、多少でも「鉄道について語っている」ブログ、
というのが急増してしまったため、「鉄道のことならココ!」という
「決定打サイト」が見当たらなくなった点である。

情報送出の垣根が低下したのは非常に喜ばしいのだが、その分、
情報が散在するようになり、情報の送り手(つまりファン)同士の
ネットワーキング機能が著しく低下したのである。

ブログのコメント機能・トラックバック機能で補える、という意見もあるが、
掲示板等で一同に会して行うコミュニケーション機能には、負けてしまう。

送り手にも問題がある。
以前なら、読者層のことを考えて
「ガンバのページ」
「マンガのページ」
「鉄道のページ」
のように運営側がコンテンツを仕分けていたと思う。

しかし、ブログになって、手軽に書けるようになった分、
運営側がそのような「コンテンツ仕分け手間」をサボるようになった。
ブログのタイトルで自動仕分けする機能があるにはあるが、
やはり手動の仕分けのようなキメの細やかさには欠ける。

そもそも書くほうの意識として、2000年のころは
「今日はこのコンテンツを書く」
「今日は別のコンテンツを書く」
のように、目的意識を持って執筆していたから、
文章としても非常に読みやすいのだが、
最近の場合は、「とりあえず脳内に思い浮かんだことを、とりとめもなく書く」
ようになっているので、文章が読みづらいのである。

このように、ブログ時代に入って、「ハブサイト喪失の危機」が高まったと思う。

解決策としては、ウィキペディアにハブ機能を持たせる、という考えがあるが、
いかがだろうか?



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激しく同意 投稿者:スルッとKANTO 投稿日: 8月29日(火)22時21分45秒


http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0608/28/news013_3.html

実は筆者がいろんな人の話を聞きたいと思い始めたのには、もう1つの理由がある。
それは冒頭の話ともつながってくるのだが、最近は検索してヒットするのはblogが増えて、
昔ながらの「サイト」という形式は少なくなってきているように思える。

blogがジャーナリズムを変えるという意見は、ある時期において真実であった。
だが日本では、blogのポリシーそのものが正確に伝わらず、お手軽写真日記自動構築
システムみたいな形で定着した。もともと日本では、blogブームが米国から飛び火する直前に、
公開日記ブームが存在したことも少なからぬ影響があっただろう。
確かに一部のblogでは、電凸と称して省庁や関係団体、メーカーなどに、
個人で電話取材を行ない、その模様をアップするところもある。
これも1つのジャーナリズムの形と言えるのかもしれないが、結果的にそれが社会に
良い影響を与えているかは疑問が残る。なぜならばこのようなやり方は、
マスコミのもっとも傲慢な部分の模倣だからである。
今のblogのあり方を否定したいわけではないが、どうも日本のblogは情報を長期保存したり、
系統立ててまとめておくという形になりにくいようだ。
読み手に対して説明するのではなく、自分だけがわかるモノローグ的な書き方であるから、
誤解も生みやすい。以前であればこの程度の情報ならまとめサイトぐらいあるだろうと
いったものも、見あたらないという状態になりつつあるような気がする。
つまりネット上でもある程度の情報集中があったものが、blogに多少の言及がある程度だったり、
掲示板のlogとして存在するだけだったりと、拡散したままの状態で放置される傾向に
あるのではないか。
従ってこのような拡散した情報を検索でまとめ、自分なりになにかの意味を見いだすという、
いわゆる企業のマーケティングの人やライターがやっているようなことを、
ネット上の情報消費行動として普通にやらなければならなくなってくる。
情報は人間を成長させるためにあるわけだが、今大きな流れとして、人間自体は成長
しているものの、インターネットの元々の趣旨であった知識の共有が行なわれず、
一部の人の中に沈殿するというサイクルに戻りつつあるのかもしれない。
だから、面白い話を持っている人に直接合って話を聞く、ということが、今さらながら
重要になるように思えるのである。



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