歴史ブレーク2・雑ネタ・明治初年の教育事情

歴史ブレーク2・雑ネタ・明治初年の教育事情
(なんでも掲示板 01年1月 投稿済)

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1)日本の学生が、一番英語がペラペラだったのはいつだったかご存知ですか?
  実は、明治初年がペラペラだったのです。

  これは、当時の英語の教師、というのが全て外国人でして、授業も当然英語で
  行っていたので、学生側も英語が出来なければ授業にならなかったからです。
  しかも、英語以外の科目、例えば化学なんかでも、テキストが英語版しかなかったり、
  外人の教授しかいなかったりしたので、本当に英語をマスターしなければならない
  状況になっていたのです。

  明治も中頃になると、日本人の英語教師も現れ、化学とかでも日本語でのテキスト、
  日本人の教授が現れますので、授業効率は上がりますが、反面英語力は低下した。

2)明治4年頃に、小学校が全国に出来ていったのですが、この頃の教育は
  トンデモなかったそうです。
  兎に角詰め込み、詰め込みの教育で、小学校に100人入学して、卒業できたのは
  1人位だった、というトンデモ教育だったらしいです。

  しかも、学費が当時の平均所得の3分の1もあったそうで、各地で「小学校一揆」が
  勃発したそうです。(学費に怒った農民が小学校に焼き討ちをかけた)

  明治5年頃、当時の森文部大臣が、知識詰め込み教育から道徳(天皇制・孝行奨励)中心
  主義に改め、学費も改善して、尋常小学校制度の基礎を作ったのです。
  (NHK「その時 歴史が動いた」のパクリです)

3)明治時代の学校。
  従来の寺小屋は「たたみ」であったが、小学校は「机といす」であった。
  恐らく、小学校で初めて「机」「椅子」を目にした保護者も多かっただろう。
  これは、国民の隅々まで西洋文化を体感させるために、あえて「机」「いす」と
  いうものを採用した、と考えるべきであろう。
  「音楽教育」で述べたように、「西洋文化」を耳で感じさせるために音楽教育を
  義務化したのと同じである。

  そういえば、小生の高校の教師曰く、「明治時代、「学校の月謝の支払い・文具品の購入」
  という行為が発生したことによって、始めて地方の農民は「貨幣」を使うようになった」と
  語ってました。
  それまでは、小作料はコメで納めてましたし、自給自足でしたから、貨幣を使うことは
  無かった。
  明治になっても大半の農民は「課税最低限」以下でしたので、税金を貨幣で払うことは
  なかった。
  唯一の貨幣を使う機会が学校関係でした。