第二の敗戦〜2009年ノベル

【この物語はフォクションです!!】

「・・・第二の敗戦だな・・・」
安部総理が、首相官邸前を走行する米軍戦車を横目に力なくつぶやいた。



いつからだろう?日米関係がこんなになったのは。



中国との関係は、確かにひどくなる一方だった。

元はといえば、2007年に起こった中国人留学生による靖国神社放火事件からだろう。
この事件、参議院選挙の直前に発生したことが安部政権には「幸い」した。
安部政権は、消費税問題や年金問題等で小沢民主党に押し切られようとしていた。
その上、公明党が連立離脱を示唆する等、「参議院選挙惨敗」も噂されていただけに、
靖国神社放火事件はまさに「神風」であった。

「中国人に靖国を冒涜させるな」を合言葉に、投票日前日に安部総理は一部延焼した
靖国神社への参拝を強行。
これにより自民党は地すべり的大勝を得て、選挙後は公明党連立政権から放り出した。

衆参の多数を握った安部総理は、惨敗で混乱する民主党内部に手を突っ込んだ。
民主党から「改憲で安部政権に協力したい」という多くの脱党者を生み出したのである。
最後の切り札」小沢氏を以ってしても選挙に敗北した民主党には、
もはや「政権交代を目指す」という求心力は崩壊してしまった。



2008年夏には「憲法改正について国民の信を問う」として解散を断行。
この時も「神風」が吹いた。
当時開催されていた北京オリンピックで日本選手が「テロ」に遭い、多数の死傷者を出してしまったのだ。

中国政府は「テロ」は一部のテロリスト勢力が引き起こしたもので、中国政府は無関係、と声明を
発表するが、日本政府は「テロではなく中国政府による工作である」と猛抗議。
選手団を北京から引き上げた上、大使召還、ODA停止等の報復措置に打って出た。

選挙の結果、ついに衆議院でも自民党は3分の2の多数を占めるに至ったのである。


安部総理は2009年に新憲法案国会通過、同年国民投票→新憲法成立、へ向けて進みだした。
日中関係は断交状態に入り、経済にも深刻な影響を与えたが、もはやその点を指摘する
まっとうな勢力はごく少数になってしまった。


政党といえば、2008年の池田大作氏死去、その後の安部総理指揮による
創価学会公明党幹部逮捕」は大きかった。
もともと創価学会公明党を快く思ってなかった安部氏が、野党に転じ、かつ池田大作氏の死去で
ガタガタになっている創価学会公明党に対して一気に攻撃を仕掛けたのである。
以前の東村山怪死事件を再捜査して一気に幹部逮捕に踏み切ったのであるが、
「かつて噂された疑惑を再度取り上げる」手法は、まさに拉致問題の手法と同じであった。



当然、右傾化する日本に周辺諸国は警戒しはじめた。
しかし、よもやアメリカが・・・


ことのつまづきは、2008年大統領にヒラリー・クリントンが選出されたことである。
当初劣勢が伝えられたヒラリー・クリントンであるが、中国系ロビイストによる選挙資金協力により、
僅差で大統領選を逃げ切った。


対アジア政策についても、親中国派がホワイトハウス入りした。
その上、イラクは内戦状態に突入し、イランは核実験に成功、アフガンはタリバンが実効支配し、
その上パキスタンまでが反米政権になってしまった。


アメリカはイスラム・中国と2正面対決する余裕はない。中国との関係強化を進めるべきだ」という
意見がホワイトハウスの主力を占めるようになった。


中国への接近を指向するアメリカ新政権に対し、中国は「見返り」を与えた。
極東の問題児、北朝鮮の指導者として金正日氏が「引退」し、温厚な次男の金正哲氏へ「禅譲」された。
その上で六カ国協議に復帰までしたのである。

事実上、金王朝の後見人の中国による北朝鮮指導部の更迭である。
「今までアメリカとの対立カードとして北朝鮮を利用していましたが、これからは対立しません」
という意思表示の現れである。


こうなると梯子をはずされたのは安部政権である。
思い起こせば、佐藤政権においても、当時の大陸中国と厳しく対立していたのに、
アメリカが頭越しで中国と和解してしまった。(いわゆるニクソンショック



計算ができる政治家であれば、面子を捨ててアメリカに追随して、対中和解に動くべきだった。
しかし、お坊ちゃま政治家、安部晋三にはそれができなかった。
彼は自分と自分の祖父のプライドに掛けて、憲法改正に意地になっていった。


今思えば、2009年2月にホワイトハウスから飛び出した
横田めぐみさんが既に死んでいるという確かな証拠をつかんでいる。
 日本政府は現実に向かい合うべきだ」という発言は、明らかに安部政権に対する牽制であった。


拉致問題のシンボル的存在である「横田めぐみさん」の生存を否定することは、
即ち政治家安部晋三の原点を否定することになる。
これは「お坊ちゃま」には耐え難い屈辱だった。


2009年春になると、クリントン政権は公式・非公式に日本の憲法改正の動きに
不快感をあらわすようになる。
しかし、安部首相は
アメリカ政府の発言は内政干渉
 日本国民は自分の意思で憲法を選択する」と主張した。


2009年6月。
いよいよ新憲法案の国会採決が間近に迫っていたある日、アメリカから特命大使として
ビル・クリントンが来日。
安部総理に対して改憲案上程の中止を求めた。
しかし、安部総理はこれを拒絶。


異常な動きは自衛隊からの報告からもたらされた。
アメリカが誇る原子力潜水艦、空母が、外洋から横須賀へ向かわずに、東京湾奥へ向かった。
しかも横田・厚木に戦車輸送機が多数飛来し、戦車部隊を降ろしていた。
嘉手納にいるはずの海兵隊まで、横田に移動し始めている。


当然これらの動きは安部総理にもたらされたが、
「まさか、アメリカが・・」という判断と、「アメリカに屈するわけにはいかない」との判断が、
結果として「第二の敗戦」につながってしまった。


6月30日早朝。
海兵隊部隊が都心へ移動し、皇居、首相官邸、国会議事堂の周辺道路を周回しはじめた。
しかし、一部の部隊は東京ではなく、常磐道・関越道・東名道を進行していた。


クリントン女史から安部総理にモーニングコールが掛かった。
「ミスター・アベ。
 首都に外国軍隊を進駐させている国が、本気で独立を保てるとお思い?」
「わが国は外国の圧力には屈さない。貴国の行為はあからさまな軍事圧力であり、国連において
 断固非難する。」
「旧敵国条項をお忘れかしら?それに、海兵隊の行動は「軍事演習」ですから。
 軍事行動がなされたような表現は心外ですわ。」
「そんなことでわが国は屈さない」
「まあそこまでおっしゃるのなら、がんばってください。
 ただひとつだけアドバイスすると、海兵隊の目的地は、東海村刈羽村御前崎市ですわ」


この瞬間、安部首相はアメリカの「本気」を見て取った。
しかし、その時には、
「たとえ原発をやられても、アメリカの理不尽な「侵略」に断固戦うぞ!」という思いで
一杯になった。


臨時閣議を招集した安部首相は、アメリカ軍による「侵略行為」を説明し、
「それでも日本政府は断固として憲法改正を進める。自衛隊に防衛出動を命ずる」と決断した。


と、そこに1本の電話が入った。
宮内庁からです。」


電話の主は、なんと平成天皇からであった。
象徴天皇制の本旨からすれば、私があなたに電話することがいかに重大な憲法違反であるか、
 よくわかっている。
 しかし、ここは日本民族のためにあえて憲法違反の罪をかぶるつもりだ。
 あなたのつらい気持ちはよくわかるが、ここは日本のために、
 アメリカと和解してもらえないだろうか・・・」


「御前電話」により、安部首相は「日米開戦」という最悪の事態へ突き進むことを断念せざるを得なくなった。