読書ノート・大阪本

【梅田】
★地下街:元は交通混雑対策の「地下道」
 防犯対策として「明るくするため」に店舗誘致
★第一弾のなんなんタウン:最初は店舗出店希望少なかった
 ⇒第二弾の梅田地下街では出店競争率8倍
★大阪地下街?:第3セクター
★梅田地下街の失敗:地上に荷捌き場を設けなかった
 ⇒荷捌きの違法駐車横行
★パチンコ屋の騒音:通行人に買い物する気を無くさせる
 パチンコ屋は商店街にとってマイナスの存在
小林一三:カレーライスを広める
★第一ビル〜第四ビル地下
 静岡地下街爆発後の規制強化で開発ペンディング
★第一ビル〜第四ビルにあった闇市
 :新大阪センイシティに移動
★「目玉は角っこに」とのことで最高層の第三ビルは角に



【鶴橋】
★鶴橋:闇市が再開発されず今でも生き残っている街
 焼肉のイメージ先行しているが、大半は一般的食料品・衣料品扱う
★鶴橋:建物疎開で空地になり、そこに戦後闇市できる。
近鉄鶴橋駅:以前はもっと西にあった
 ⇒国鉄城東線開業で東に移転
★戦前の鶴橋:大した商店なかった
近鉄沿線:空襲被害すくなく、ほぼ正常に運転
 ⇒戦後闇物資の運搬なされる
 ⇒鶴橋が闇市メッカに。
★昭和21年:乳児の10人に1人が餓死
 ⇒このころから「餓死」から「栄養失調」へ言い換えされる
★買出しに子供が駆り出される
 ∵子供が背負う物資は当局も没収しないため
★鶴橋に25階建て再開発ビル構想
★市街地再開発大阪の第一号:上本町ハイハイタウン
大阪市当局の悲願
 「大阪駅前を第二の丸の内にしたい」
天王寺阿倍野:戦災被害免れる
★チヂミ:本来は冠婚葬祭の際に食べる
★キムチや焼肉が日本人の間に広まったのはほんの最近
 鶴橋に焼肉屋が増えたのも最近のこと
生野区:特に済州島出身者が多い
 かつては大阪〜済州島に航路があった
★昭和53年頃のガイドブック:鶴橋のキムチ・焼肉の記述なし
 ⇒昭和58年頃から登場
 かつては独立した項目で取り上げられていた上本町が、今では鶴橋のオマケ扱い
★鶴橋の衣料店:小売主体に
 食料品店:まだまだ卸売健在
★東成区側の再開発構想は頓挫
 生野区側の構想は健在(阪神大震災で危機感強まる)
★そごう:全館が米軍に接収される
★戦後大阪の卸売機能が壊滅
 (船場が被災)
 ⇒大丸等の百貨店が卸売り機能を果たす
 一時、大阪の百貨店売上が全国平均の8割に達した
★鶴橋:かつて焼津をはじめ全国から海水産物が集まった
★闇商店:店の表に非統制品陳列し、店の奥に統制品を隠す
 ⇒勝手知った客は店の表を無視してずんずん奥へ進む
★鶴橋に闇市が出来た理由:後背地面積が大きい
 (闇市に物資供給する農家漁師のエリア大きい/闇市経由で物資購入する購買層エリア大きい)
 京橋:京阪沿線しか後背地ない
 ナンバ天王寺阿倍野:和歌山しか後背地ない
 (関西線は輸送力少ない)
 鶴橋:奈良と三重が後背地
 当時、伊勢と名古屋は軌間が別だった⇒繋がり薄かった
 伊勢は大阪の方と強く結びついていた
近鉄で鮮魚仕入れの業者(1,000人はいた)と一般客間でトラブル頻発 
 ⇒鮮魚指定車両の誕生
★海がない奈良県:鶴橋が事実上の海産物集積地の役割を果たした
★「担ぎ魚」:漁師個人が魚担いで鶴橋へ。
 大量ルートでない⇒新鮮かつ珍しい魚が来る
★鶴橋の海産物の主力:伊勢の魚。あわびも当時は安かった。
★鶴橋:嵩張る家具店はなかった。家具店以外はなんでもあった。
 公設市場は業種指定される。(「食品市場」「衣料市場」)
 「民設」の鶴橋は業種指定がないので、家具店以外はなんでも揃った。
 「よろず屋」の仕入れには極めて便利。
★石鹸商人
 中国、四国、九州へは、輸送費相当分、問屋は高く卸していた。
 ⇒その対抗策として、自ら大阪で石鹸買い付け、列車で西日本を行商して安く売る。
ローソク、マッチも多い
 ローソクは葬祭用でなく、必需品(停電が多かった)
 マッチも喫煙しなくても必需品。(当時のコンロは自動着火ではない)
★鰹節、煮干:化学調味料なかったので、必需品
★鶴橋:大量に買ってくれるなら個人相手にも売ってくれる
★夕方にはディスカウントセール(冷蔵庫なかったから)
堺市東大阪市にも「自転車」で届けていた
★従業員:殆ど住みこみ
★昭和34年から北朝鮮への帰国事業⇒チョゴリ売れる
★1970年代のセマウル運動の時もチョゴリ売れる
★鶴橋国際商店街
 6坪の店舗を4店がシェア
 ⇒1店抜け、2店抜け・・・最後まで生き残った店が6坪を占有
 自然淘汰で商才ある店が生き残ることになった。
 (商才ある人が鶴橋を盛り上げることに)
★全国の商店街にアーケードが掛かり始めたのは昭和30年代後半
 (スーパーへの対抗)
★鶴橋:全国的にも珍しい「木造のアーケード」ある
★アーケード付き商店街が蜘蛛の巣のように広がる。
 ⇒鶴橋は「蜘蛛の巣の総延長合計」では、日本有数のアーケード街
★鶴橋へのダメージ:奈良県中央卸売市場の開設
 (大阪の卸売市場開設よりもダメージ大きかった)
★戦災復興土地区画整理事業:戦災に遭わなかった鶴橋は対象外
 上本町は対象⇒ハイハイタウンへ
★卸のモータリゼーション
 ⇒箕面東大阪・岸和田の卸商業団地へ



【実験都市・千里ニュータウンはいかに造られたか】
★千里の先駆:香里団地(元火薬製造所)
 ここでのノウハウが千里に生かされる
 マスタープランが外部(京大)に外注されたが、マスタープラン違反多し
 例「幹線道路は住宅地内を貫通しない」
  ⇒「工事のし易さ」を理由に貫通することに
日本住宅公団:住宅作りは得意でも、商業ゾーン作りは不得手
★共同住区理論:近隣住区(小学校区単位)を数区束ね、そこに商業中心を置く
 近隣住区レベルの商業ゾーンが不振
 しかし共同住区レベルの商業ゾーンならば、不振にならず、高く売れるので
 ニュータウン事業の採算性UP
大阪府住宅局:日本最高水準の「街作りのプロ」が集まった
★1966山田川決壊
 ニュータウンの保水力の弱体化の証
★1958狩野川台風:都市水害第一号
 東京では谷が水没、横浜では崖崩れ
★崖崩れ災害:都市化・宅造で生じる新しい災害
 1955=水害死者の4%が崖崩れ⇒1971=水害死者の70%が崖崩れ
★1962左藤知事の「大阪地方計画」
 「北に千里NT、中に中央環状、南に泉北NT」
 大阪府全域に満遍なく投資
ニュータウン開発:独立採算
 土地区画整理方式でなく、土地を買収して(強制収用含む)、その後公的規制を掛ける
★イギリス式ニュータウン(職住近接)を否定し、通勤都市(ベッドタウン)とする
★複数階層の居住を想定
 小家族〜多家族、若世帯〜老世帯、貧乏人〜金持ち
 数パターンの住居を用意し、住み替えてもらうことでニュータウンでの定住を図る
★京大西山研究室の「段階計画方式」
 第一期:千里線延長エリアを開発
 第二期:御堂筋線延長エリアを開発
 第三期:その外延を開発
日本住宅公団:借入金多かった
 ⇒千里NTは日本住宅公団でなく大阪府の事業とした
★事業収支を良くするために、千里中央を「副都心」にして商業性を高め、
 高値売却できるようにした。
ニュータウン区域:従前の集落と無関係に線引き
 ⇒集落内に「買収される人」と「されない人」が出現
 ⇒集落内の分断、反対運動の分断
★この辺の農家:値上がり期待農家多い
 テキトーにコメ(自給用)や果樹を作っている
★買収:手っ取り早いところからどんどん買収
 安い土地、農業収益性低い土地から買収
 安い吹田市側先行、高い豊中市側後回し
★松戸常盤台団地:4年にわたり買収難航
★1959ニュータウン吹田市域計画全貌(200万坪)を報道リリース
 ※マスコミ各社に「OKするまで報道自粛せよ」と要請
★山田村:戦前に「山田村小作争議」起こした
★23名の強制収用通告
 ⇒反対派団結、総評とタイアップ
 「労農提携」
★総評「ニュータウンは金持ち向け住宅」低所得者向けではない
★府と反対派の「団交」
 ⇒府の譲歩案
 「代替地を用意、そこに『生産緑地管理人』の名目で実質的に小作営農を認める」
 (都市公園でなく農業公園の管理者、という建てつけ)
★63年5月 「農薬ビン事件」を契機に反対派と妥協覚書締結
★用地買収担当が汚職で逮捕
★日本初の公営住宅:1918〜「公益住宅」
 自治体が建設、大蔵省が自治体に低利融資
★1930年代:世界的にニュータウン理論高まる
 ソビエトの「工業都市建設」、ナチス「新都市計画」 
日本住宅公団:必要最小限の施設を「大量生産」するシステム・プロセスに長けた
★「共同住区論」近隣住区内の商業施設否定
 ⇒千里もこれを徹底しておけば悲惨なことにならなかった
★日本の当時の研究者の暗黙の前提:「山の手居住がベスト」
★北急:万博から高槻に行く案も
★幼+小学校低学年「分校」の提案
 「通学能力を考えると、低学年までの校舎は住居近接が望ましい」
★千里NT電線地中化構想もあった
大阪府、住宅公団、京大で千里NT開発の「合宿」
大阪府当局:当初計画人口に自信持っていなかった(プロジェクト採算不安視)
★そもそも千里がなぜ「未開発地」として残っていたか?・・・用水の不備
★千里NTプロジェクト:最終的には黒字になったと思われる。
 後になればなるほど高く売れた
★まだ府企業局当局は土地を隠し持っている
 例:「鉄道延長予定地」
 仮に売れば収益になる(一種の埋蔵金
★「幼稚園+低学年小学校」案
 ・・・幼稚園部分に国の補助金来ない、として吹田市が却下
 また、給食も非効率になる
★私立幼稚園:「幼稚園+低学年小学校」案を「経営が圧迫される」と反対
★千里NT:当初マスタープランから更に高層化⇒児童数の急増
 急遽「予定外」の北千里小学校建設へ
 しかし用地が殆どなし。「幹線道挟んで、校舎と運動場を配置」する苦肉の策
★診療所勤務用の住宅がない
 ⇒医者が「通い勤務」に。(夜間不在状態)
 夜間無医状態の不安&勤務医の過剰労働
★結局「医師村」状態に
 (今でいう医療モール)
★大規模病院:府と医師会の寄付金で法人を新設して「新千里病院」建設運営
 ⇒外科医ばかり参加、内科医と小児科医不足
★近隣住区内マーケット:「生活再建」名目で、旧地権者に商売権与えた
 旧農家がド素人経営をするハメに、当然不振。
★「緑被率が高い千里NT」の宣伝文句
 :実態は急斜面の雑木林(宅造不能)を残しただけ
★本来:ニュータウンは完成すると終了。
 千里:完成しても住民から様々な不満噴出
 ⇒「完成したはず」のニュータウンで「再開発」される(例:北千里小学校)
吹田市豊中市:当初はニュータウン計画にタッチせず
 「府が勝手にやっている話」
★急増する児童数への対応:市への負担になった。
 (府が勝手に高層化したから)
★1970年代に、早くも「千里は将来老人の街になる」の予想が出ていた
★1972年セルシー開業⇒駐車場不足、不法駐車が問題化

【産経大阪特派員】
★江戸時代のヨーロッパ人
 大阪を「日本のパリ」と呼んだ
 「日本のパリ」「東洋のベニス」
★明治時代、「東洋のベニス」はマイナス用語に
 ベニス=時代遅れの街、のイメージ
 「工業化すべし」東洋のマンチェスター
★関市長:市営バス運行、大阪港建設
★日本の繊維技術:色彩感覚を除き世界一
 (色彩はイタリアに負ける)
★2006年まで貝塚に隔週定時制高校があった
 (繊維産業の二交代制に合わせた)
★府立東住吉高校:芸能文化科ある(伝統芸能学ぶ)
堺屋太一「新業態の6〜7割は関西発」
 オムライス、缶コーヒー、ケーブルカー
猪飼野の地名、昭和48年に消滅
 空襲を免れたので小路多い
重要文化財民家数:1位奈良、2位大阪
★橋の数:大阪市760
 京都市1300、神戸市2000、東京23区3800
 市域の大きさが影響
★マグロのトロの比率:「開いてみなければ」わからない
★関西人:本来白身魚を好み、マグロのような赤身魚は食べない
★日本初の中央卸売市場:京都(御大典に備えて)
松下幸之助:実は猪飼野で創業
福沢諭吉:福島から適塾に通う
★関市長:マンチェスター化(工業化)に一線を引く
リットン調査団も訪れた綿業会館:ワイヤ入りガラスで空襲に耐えた
 (フランス製ガラス、日本には当時ワイア入り技術なし)
★ペリー:浦賀来航の前に沖縄来航
対馬では「こないだの戦争」は日露戦争のこと
対馬の「豊の砲台」:世界最大、GHQも解体できず
対馬の方が出島より貿易取扱高多かった
アメリカの日本庭園専門誌ランキング:
 安来の足立美術館庭園が日本一(631庭園中で)
小泉八雲:外人で初めて、出雲大社への昇殿を許された
★見本市第一号:大阪
★イタリア:「インテリアコーディネーター」なる職業がいない。
 素人自らコーディネート
 「一番楽しい部分を人に任せるなんて信じられない」
★イタリア繊維産業:1960年代は大企業型
 ⇒日本の追い上げで大企業衰退
 ⇒多品種少量生産型のイタリア型ビジネスモデルへチェンジ
コモ湖畔:別荘街
★ミラノ:運河の内側が「真性ミラノ」
 外側と階層差
大阪市大:関一市長が作る
 「国立大学のコピーであってはならぬ」
アメリカ:都市研究、社会学進んでいる。
 ⇒「関一研究」「大阪研究」という独創的(ニッチ)な研究テーマでないと
 認めてもらえない。
人間国宝の30%は関西在住
 有形文化財国宝の60%は関西
文化庁移転の障害「センセに呼び付けられた際に対応できない」
★釜山:「文化の荒れ地」⇒打開策として映画祭招致
★「かに道楽」「くいだおれ人形」「つぼらや」キーホルダー
 行政が「待った」を掛けた。「三店優遇で不公平」
松山市:転勤族の定住率高い
★大阪人:道案内で「東西南北」の方角を使う
 東京人:「右左」使う
 ∵大阪は山があって方角感覚掴みやすい
 ∵碁盤の目で東西南北はっきりしている。

【大阪改革】
大阪市:市内の土地の25%を保有
相対的貧困率低所得者割合の指数化)
 アメリカ=17.1
 日本=15.3
 北欧=5前後 
★次世代における下層⇒上層への移行=3.2%
 下層⇒中層への移行=25.8%
 (階層の固定化)
★20億円超の資産相続者:6割が都内在住
★総医療支出:日本はOECD中で下位
★全国の公営住宅の価値=約10兆円
 高度利用するだけで膨大な資産価値 
★民主主義:フローの配分には適しているが、ストック(含負のストック)の配分には適していない
橋本龍太郎副大臣政務官を作った
郵政解散:国民に「選挙で政策が変えることができるんだ」
 「ならば政権も変えることができるのかも」と国民に思わせた効果が大きい。
 2009年民主党政権はその効果。
★大阪砲兵工廠:アジア最大の軍需工場
 その技術がダイキンダイハツダイセル
★大阪:元々は「東西軸」都市
 船場を中心に、西へ広がる。
 で大阪駅は場末にできる。
 ⇒関一が御堂筋で大阪駅と御堂筋を直結。
 「南北へ広がる都市、南北軸都市」へ転換
大大阪時代:●●銀座ならぬ●●大阪が全国各地に出現
★高速道出来るまで、日本の物流・市場は「東日本市場」「西日本市場」が分立
 (物資が箱根の関超えて供給されるのは、さほど多くなかった)
 西日本市場を所轄するクォーターとして、大阪の役割があった。
 ⇒高速道路ネットワークの整備により、本州は単一市場化
 ⇒大阪にクォーターを置く意味がなくなる。
大阪市役所:人員が他市より2〜3割多い。
 1人当り人件費も他市より2〜3割多い。
★市バス運転手:1,300万円超の高級取りも
大阪市:ゴミ収集車に係員が3人も乗っている
フェデラルエクスプレス:ハブを中部から関空に変更
★「はるか」にフライトナンバー付けるアイデア
 「ニューヨーク発京都行き」「京都発パリ行き」
★府市水道統合の隠れた狙い
 ・・・柴島浄水場の閉鎖、跡地利用(1,000億円はする)
大阪府立大、大阪市立大への税金投入額=217億円
 参考:首都大学東京の投入額=129億円
大阪市の地価:東高西低
 四つ橋線西梅田止まりで、なにわ筋線が出来ないから。
 この辺を解決すれば、西区の地価も上がって大阪市内がバランス良くなる。
森ノ宮の焼却工場&地下鉄検査場
 府市合併すれば郊外移転できる⇒再開発できる
★府市が持つ公営住宅:3兆円相当
★市の自己分析「未利用地は全体所有地の4%」本当か?
 (仮に本当でも、府市合併すればもっと増える)


【なんば本】
★大阪のビル化の流れ
 北浜・堂島の商人⇒御堂筋沿いに南下してビル建設
 船場の繊維商人⇒御堂筋沿いに北上してビル建設
 御堂筋が堂島北浜と船場を橋渡しした
★なんばの幕府直轄米蔵⇒維新で取り潰し
 その後専売局煙草工場できる⇒戦後大阪球場に⇒なんばパークス
★「鴨ナンバ」:「難波」が語源?
★大「坂」:武士が背く、と明治政府が嫌ったから改字させた、説。
★明治政府:技術が必要な紙幣発行より貨幣発行を急いだ。
 ⇒金属技術ある大阪に造幣局設置
★軍用日用品の技術⇒砲兵工廠近くの玉造に
★御堂筋の工事:16年かかった(国庫補助が関東大震災で打ち切りに)
★テレビ、新聞社:キタに集まる
★鉄道の官設:西南戦争で頓挫⇒日本鉄道等の民間に任す
★明治の五大私鉄
 日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、関西鉄道、北海道炭坑鉄道
阪堺鉄道発起者の一人が「藤田組」の藤田伝三郎
 奇兵隊出身、軍靴製造販売で身を起こす
 西南戦争で人工と資金を提供
薩摩藩が堺に紡績所を起こした
 ⇒明治政府が引き取り官営化⇒大阪に紡績広がる
★紡績の夜間操業のために電化(石油ランプは火災の恐れ)
★「大阪紡績」かつては世界最大の紡績会社
 戦時中に軍需会社となり、戦火で×
阪堺鉄道開業=12月27日(住吉大社初詣狙い)
★都市における西洋料理:それ自体が観光資源に
★インターアーバン:軽量故にレール敷設容易、頻発可能
 本家のアメリカで廃れ、日本で発達
★阪急梅田ターミナル:当初は白木屋がテナントとして入っていた
堺筋の百貨店:昔はこちらがメーンストリートで本流だった。
 三越白木屋高島屋松坂屋
 ⇒御堂筋開設に合わせ大丸・そごうオープン⇒こっちがメジャーに。
 御堂筋最南端には高島屋(元は京都)が入る。
★昔の百貨店:音楽隊を持っていた(これで集客)
★なんば高島屋:日本初の冷房完備
高島屋「10銭ストア」なんでも10銭、今の100均ショップ。
★千日前:江戸時代は墓地兼刑場。本来盛り場になる土地じゃない。
 ⇒明治以降、墓地が天王寺移転、刑場廃止⇒跡地に見世物小屋できる。
★日本で最初に映画上映されたのはなんば(当初は芝居小屋で上映)
 ⇒徐々に常設の活動写真小屋できる。
 この電気工事していたのが若き松下幸之助
★千日前楽天地(田中絹代在籍):10銭の入場料で1日中遊び放題
★一流の寄席:色街の近くにある。
 吉本:「二流」が集まる天満八軒でスタート(今の天満繁昌亭近く)
★吉本:客が食い散らかしたミカンの皮を拾い集め、薬屋に売る
★「天皇陛下萬歳」と被らないよう、「萬歳」を「万才」に変える
吉本せいの弟、正之助:明石で奉公歴あり、神戸の事情に明るい。
 神戸新開地でブームだった「万才」を大阪へ。
★大正末期の大阪:ジャズの大中心地(関東からバンドマン震災疎開
エンタツ:当時には珍しい中学卒
★吉本:高島屋にあやかり10銭万才始める
★吉本:最初「ラジオ出演は寄席来場の敵」と考えた
 ⇒無断出演した芸人目当てに客押しかけるハプニング⇒方針変更。
エンタツアチャコの持ちネタ:「早慶戦」・・・ラジオで大ブーム
松下電器:「ラジオセットコンクール」で1位入賞⇒一気に飛躍
★戎橋:本来は「今宮戎神社への参道にあった」から戎橋。
★551蓬莱:「ココが一番」=「コ(5)コ(5)が一番(1)」
★うなぎ屋の千日前いずもや・・・少年音楽隊を百貨店並みに持っていた。
 ・・・ジャズの名手服部良一を産む(東京ブギウギ作る)
 「大阪のジャズはうなぎ屋から始まった」
★きつねうどん:揚げいなりをうどんの上で食べる客が多かったから始まった
★関西割烹:震災後東京進出。「カウンター割烹」は関西が発祥
★1925西心斎橋パンヤの食堂」(現北極星
 胃弱の客にオムライスを特別に造った⇒オムライス発祥
★世間の「大阪はくいだおれ」のイメージ・・・「くいだおれ食堂」の影響大
★キタは「そば」、ミナミは「うどん」
★戦前の「南海軍」:表向きは中百舌鳥が本拠
 しかし客が集まらないので、実態は甲子園や西宮で試合やってた。
★歯磨きのライオン:かつて「国民新聞社」と一緒に「大東京」という
 プロ野球団持っていた。
★南海:中百舌鳥を巨大総合運動公園にするつもりだった
★中日スタジアム:突貫工事で木造⇒見事に1951年に焼失
大阪球場:松竹ロビンズの試合も行っていた
大阪球場:野球場以外に、ビリヤード場、スケートリンク、ボーリング場、文化教室などがあった。
浜寺公園南部:日露戦争のロシア兵捕虜施設あった
 当時の日本は捕虜を丁重に扱っていた⇒捕虜は自由行動、中には商売する人も⇒賑わう
浜寺公園毎日新聞と共同で海水浴場開く。さらに花火大会も。
★南海:急行列車内に洋食ビュッフェ、その後駅内展開。当時珍しい洋食と話題に
 (首都圏の「キッチン南海」のルーツはここか?)
★南海が浜寺を開発する一方、まだ南海系じゃなかった阪堺が大浜を開発し、競争に。
みさき公園:日本初の無柵放養動物園  又、日本初の大規模水槽水族館
★南海会館:3つの映画館入居。シネコンのさきがけ
★長嶋:本来、杉浦と一緒に南海に入団するハズだった。
★南海労組:「赤字の球団につぎ込むカネあるなら、給料上げろ」と球団運営に反対
★戦前は「吉本=ケチ」の悪評はなかった。寄付もしていた。
★1938経営不振の通天閣を吉本が引き取る。
★戦前の「吉本東京支社」⇒戦後独立したが、倒産。
★戦後の吉本:劇場焼失以上に、芸人離散の方が痛かった。
 ⇒芸人不要な映画興行で急場凌ぐ
★1953千日前グランド劇場改築 村野藤吾設計(そごう設計者)
力道山日本プロレス興業に吉本は取締役で参加
★梅田花月映画館:芸人の復帰に合わせて演芸場に・・・同日にMBSテレビ開局
 ⇒舞台初日をMBSテレビで中継(これを機にMBSと提携)
★ラジオ:メジャーマスコミでなくなり、深夜若者向けメディア化進む
 ⇒若手芸人ブレイクへ(仁鶴、三枝)
なんばパークス:吉本も協力
バブル崩壊によるTV制作費カット:吉本にプラス
 (カネが掛からないバラエティ本数増⇒B級芸人登場回数増)
★大丸の奥田会長心斎橋筋に変な店が入ってきては困る、と土地買いに走る。