読書ノート・明治時代の鉄道

★1890まで、議会のOKなく予算が執行できた(というか、議会がなかった)
 →鉄道建設は、政府高官の思惑通りに出来た。
★佐倉:兵営所があった
 「総武線は軍事的に重要だから、早期着工すべし」の声
 「日本鉄道がある東北より、千葉が不便でいいのか?」
山形鉄道構想:白石〜山形〜大石田
 大石田最上川水運に連絡
中央西線巡って、木曾谷と伊那谷が誘致合戦
山陽鉄道:姫路と神戸を結ぶ・・・姫路の分県要求の緩和期待
★1890年恐慌:私鉄株暴落 国による買収チャンス到来
自由党や改進党(板垣や大隈):当初は政府の鉄道推進に反対
 「民力休養すべき」
 建設推進したい各県有力者は板垣・大隈詣で
★明治時代:「国会」という名の新聞があった。
 (文字通り、国会の動きを新聞にする)
★当時の自由党や改進党(いわゆる「民党」):警視が民党に内偵に入り、動向観察
★鉄道敷設法:北海道の線区は入らず
★鉄道敷設法第15条の「鉄道会議」
 敷設順序を諮問
 内務省以外に陸軍省も参加、私鉄経営者も参加
 今まで思い通りに鉄道敷いた井上勝の手かせ足かせに。
★新潟への鉄道ルート
 ?直江津から新潟
 ?郡山から新潟
 陸軍が海岸沿いの?に反対し、?を推奨←会津がそれに乗っかる
★「奥羽線完成より前に?を完成させたい」
 さもなくば、(奥羽線完成後に)米沢〜新潟の第三ルートが浮上してしまう
★起点競争
 「わが町を分岐点にしてくれ」
 会津方面の分岐駅に、本宮、郡山、須賀川、白河が名乗り
 「分岐駅が交通物流の要衝として発展する」ことが理解されてきた。
★和歌山の有力政治家陸奥宗光:今の「和歌山線ルート」推進
 和歌山の商工業者:大阪と直結される「阪和ルート」推進
 自由党が商工業者に相乗りして阪和ルート推進
 一方、奈良県内の自由党員は和歌山線ルート推進(ねじれ)
★木曾谷VS伊那谷
 伊那は代議士が2人いるが、木曾にはいない
 ⇒佐久地盤代議士に「借金肩代わり」をエサに木曾谷支持へ説得
★木曾VS伊那、相手を中傷合戦
 伊那「木曾ルートは積雪あり、人口少ない」
 木曾「伊那ルートは距離が長く、勾配あり」
自由党:第三国会から「民力休養」⇒「民力育成」へ方針変更
★八王子〜甲府案と御殿場〜甲府案:八王子案が勝利
北越線:工費安い直江津ルート、内陸通り軍部支持の豊野ルート
 ・・・直江津ルート勝利
★和歌山:結局「海岸沿い避けるべき」の軍部意向で和歌山線ルートに
自由党:各地域の代議士同士が対立
 党議拘束できず、自由投票に
★院外で金銭買収合戦に
★1893:「1890恐慌」から抜け出す
 ⇒官設できなかったルートを「私設」する動き
 例:大阪〜和歌山(今の南海)
岩越鉄道:「私鉄」と言いながら、各郡に株式引き受けノルマ課す
 限りなく公設に近い
伊藤博文内閣:条約改正巡り、議会行き詰まり
 ⇒国内の不満そらすため、朝鮮半島を理由に清国に宣戦
★陸軍内の鉄道主義者、黒田清隆
 松方デフレ対策として、あえて鉄道建設主張
 「鉄道を敷けば、駐屯地を集約できる。(有事に輸送すればいい9
  ⇒平時の軍費が削減できる」
★鉄道の東海道ルート決定:参謀本部を無視した決定
 この後、参謀本部は必ず鉄路決定に関与するようになる。
★陸軍:広軌派、井上勝は狭軌
★軍部:日本鉄道(東北線)の塩釜付近と野辺地〜青森が海岸沿いなのが不満
東北線が旧陸羽街道を外れて塩釜を通っている理由
 ・・・塩釜を工事資材の拠点にした(武豊と同じ)
★陸軍:盛岡から大館周りで青森に行くように要求
 しかし、第一次伊藤内閣は八戸ルートを閣議決定
★井上勝:陸軍をなだめるため、殆ど内陸の奥羽線を作ってあげた
渋沢栄一:鉄道会議で内陸に固執する陸軍を批判
山陽鉄道の広島以東の海岸部(例:須磨):紀淡・鳴門・芸予の海峡を封鎖できるので、安全との見方
 広島以西は極力内陸を通したい
★陸軍:広島以西、津和野を通れと無茶な要求⇒日清戦争で断念
日清戦争用の宇品線:わずか17日間の突貫工事で完成
鞆鉄道山陽線開通で打撃受けた鞆の再興を目論む
★対三次連絡鉄道:福山と尾道で競願
 この他、三原、広島も参戦
★対舞鶴鉄道:京都大阪VS土山(=神戸)
 「舞鶴、丹後の物資を太平洋側へ」
 ⇒京都へ結べば、港出しは大阪になる
 土山と結べば、港出しは神戸となる
★「北海道鉄道敷設法」
 「鉄道敷設法」が本土だけだったため、特別に作る
衆院が本土鉄道建設に熱心
 一方、北海道鉄道建設に熱心だったのは貴族院
中江兆民:実は鉄道利権ゴロ
 各地の鉄道の発起人に登場
日露戦争後に軽便鉄道ブーム
 国鉄自ら、軽便鉄道規格で作り始める(例:真岡線
鞆鉄道出資者:森下仁丹社長も(鞆出身)
国鉄軽便鉄道規格で建設促進⇒旧鉄道敷設法が有名無実化