★社歌
「中華の民と」
→「満州の民と」
→「東亜の民と」
★政友会の中国視察団3人組
松岡洋右、山本条太郎、森恪
出迎えたのは奉天総領事の吉田茂
★後の満鉄総裁山本条太郎:三井物産上海支店長だった
日露戦争時、上海の全ハシケを買占め、岸壁に係留
→ロシア軍が上海使えないようにした
★森恪:山本の部下だった
バルチック艦隊を発見すると、石炭積載量から
「対馬海峡を通ると推測される」と山本に知らせる
→連合艦隊へ知らせる
★森恪:孫文援助の代わりに満州を買収する計画
★山本や森:「政友会五奉行」
中国で吉田と知り合い、意気投合
田中義一内閣で吉田を外務次官に抜擢
★松岡:「山本条太郎の分身」
山本を「おやじさん」と呼んで慕う
★政友会中国視察3人組
現地視察して、「幣原外交は否定すべき」
「満蒙を分離すべき」と確信
中国の混乱の背後にはソビエト・インターナショナルが
あると確信
★昭和2年の「南京事件」
イギリスは日本に共同出兵を申し出
もはやイギリスには単独出兵する力を失っていた
しかし幣原は出兵見送り
★幣原の「複数心臓論」
中国は心臓がいくつもある
北京だけ叩いても意味がないし、上海だけ叩いても意味がない
★中国側から「満州売却論」言い出す人も
★満鉄:軍部と情報戦するときも
★イギリス情報機関:日本陰謀論流布
「排英」が「排日」に転化
★若槻内閣:直接的には震災手形(鈴木商店問題)で崩壊
実際は枢密院の幣原外交否定で倒閣
★田中義一内閣で高橋蔵相と山本条太郎満鉄総裁就任
高橋と山本で政策が一致
★当時の日本人は、金解禁を「朝鮮人の名前」と思い込んだ
金解禁に対する庶民の理解は、その程度
★枢密院:高橋是清の金融政策を無条件で受諾
若槻内閣に対する態度と正反対
・・・結局、枢密院は「幣原外交嫌い」で若槻内閣を倒閣した
★外務官僚:幣原外交維持が主流
・・森恪政務次官が就任して対立
★森恪:内閣入りを機に、満蒙独立構想を各界に工作
★森恪:「東方会議」を提唱
内閣の交代にかかわらず、一貫した満蒙政策を推進するため
★東方会議で満鉄のあり方も議論
「付属地の行政権は満鉄でなく関東庁に与えるべき」
「調査部は独立すべき」
★吉田茂の一存で、京奉線(中国資本)の満鉄横断差し止め
→張作霖に打撃
★張作霖:打通線を建設(満鉄のライバル線)
★田中首相の人事
「山本条太郎総裁、松岡副総裁」
森恪が東京で腕を振るえるよう、元上司の山本を大連に追いやった?
★山本:シーメンス事件に連座したので、外相に出来なかった
★田中内閣の内閣書記官長:鳩山一郎
ゴルフ好きで、官長室でドロップをボール代わりにしてゴルフスウィングしていた
★山本条太郎:海軍汚職で三井物産辞職
→政治家転進
海軍汚職、シーメンスと「キズの多い男」
★山本:「満鉄中興の祖」
★山本:満鉄就任時に
「社員の靴がキレイすぎる、泥仕事していない」と一喝
★山本:法律やルールが苦手
(松岡は得意)
一方で計数は強い
「数字の詩人」
★山本:軍隊にすら「経済生産性」の概念を持ち込む
(節軍主義)
★山本のおかげで、昭和恐慌化下でも満鉄は黒字
★一方で「満鉄は営利会社じゃない」と社員は反発
★満鉄の支線構想:日中で基本合意していたが、中国側が内乱に
→そもそも交渉相手がいなくなる
★満鉄トップ:「総裁」→「社長」→「総裁」
山本が「総裁」を復活させた
★山本:満鉄の支線構想交渉
一方で東京では森恪が「そもそも満蒙を独立させてしまえ」と運動
★森恪の不満
「山本の措置は内科的
満蒙は外科的措置でないとだめ」
★山本の交渉が実現すれば、森や陸軍の手柄がなくなる
→山本の交渉をぶっつぶすために張作霖を爆破へ
★山本:経済の人
武力で相手をねじ伏せるのは想定外
★張作霖爆殺:田中内閣瓦解
→山本総裁、松岡副総裁も辞職
★山本:支線構想以外に幹線構想も
★山本:鞍山製鉄所を「世界でもっともコストが安い」製鉄所にした
★中国の輸出税を逃れるため、石炭・鉄鉱石を朝鮮領新義州まで運び、
新義州に製鉄所を作る構想
・・・山本が「満州は中国領」という大前提に立っている証左
(松岡は不本意。「満州は日本の勢力圏なのに・・・」)
★満鉄支線の安奉線(新義州まで)
・・・沿線付属地がない
有事の際には新義州まで運べない
★山本の裏構想:鴨緑江水力発電とセットで、新義州を工業開発したい?
利権からみ?
★山本の構想は満蒙放棄論?
★石橋湛山:第一次大戦の青島占領を批判
山本の考えは石橋に近い?
★製鉄所の副産物の窒素:肥料を作って食料増産
★山本:オイルシェールをスタートさせた
★松岡:外交官試験合格
★森と松岡の微妙な違い
松岡:満蒙を日本支配下にするが、中国本土と事を構えたくはなかった
森:中国本土(蒋介石)と事も辞さず
★満州、特に付属地内
・・・中国人就学率は中国本土より高い
(インフラ充実)
★清朝:満州の漢民族移住を禁止していた
そのため北満の人口わずか100万人
→日本が満鉄敷いて、漢民族含め移住を認めたため、
1929には3,000万人に