【7月18日→8月9日 昭和20〜30年代の鉄道】

7月31日
★「見切り発車」という慣用句があるが、これは本当に「痛勤ラッシュがヒド過ぎて、ドアを完全クローズすることが出来ずに、仕方なく発車した」という昭和20〜30年代の東京の通勤惨状から産まれた「実話に基づく慣用句」らしい。
8月1日
★昭和20〜30年代の鉄道本を読むと、いろんな意味で「革新期」だったと思う。技術的にもそうだが、車内アコモ的にもそう。今では「当たり前」の車内サービスは、この頃から生まれていることも。
★例えば、「車内放送」というのは、今ではあって当たり前だが、実はこの頃から普及しだしたサービス。もっとも、鉄道好き作家の阿川氏は、車内放送のやり過ぎに不満だったようだ。
★今では車内照明は蛍光灯で明るいが、戦前の列車などは白熱灯がわずかしかなく、本も読めないくらいに暗かったらしい。まあこれは、一般家庭の夜も同じだったと思うが。
★一般顧客は、旧性能電車だの高性能電車だの新性能電車だの言われても、ピンと来ない。が、こういう車内アコモの変化には、極めて敏感。夜の電車が明るくなっただけでも、大好評だったらしい。
★電車デザインもまさに革新期で、湘南電車とか「こだま」塗装とか、革新的な塗装がデビューしている。デザイン的には、現代のメタリックな外装デザインは、この頃のデザインより「良くなった」と言えるか?
プラレールで113系湘南色電車のプラレールがあるが、これが下の子に人気(笑)。本人は113系なぞ見たことないと思うが。幼児から見ても、湘南電車の塗装分けは魅力的なんだろう。
★昭和20〜30年代の国鉄を全社的に眺めた場合、当時の課題は「輸送力増強」と「無煙化」。動力近代化の切り札が「交流電化」と「気動車化」。
★当時の国鉄無煙化に熱心だったのは、表向きは「輸送力増強&労働者の労務環境の改善」だが、ホンネは「動力車労組を弱体化させたい」だったと思われる。
★ところで、かつての鉄道省は、日露戦争時の鉄道国有化で、旧私鉄車輌の形式がバラバラで苦労した、というトラウマを有していた。だから、「極力車輌形式を統一したい」という本能が働いたらしい。
★形式をできるだけ統一させたいのに、昭和30年代になると気動車や交流電車の形式が増えていく。交流の場合は50ヘルツ60ヘルツがあるから、余分に形式が増える。
★だから、「せめて直流の通勤電車くらい、全国で形式を統一させたい」という強いインセンティブが働いた。「馬鹿の一つ覚えのように、東京大阪で103系が投入され続けた」のは、上記のような理由による。