仕掛ネタ 夏目漱石「彼岸過迄」

夏目漱石の「彼岸過迄」を読んでの読書ノート

★実は漱石は鉄道マニアなんじゃないか?少なくとも市電マニアなんじゃないか?
 小川町電停での探偵ごっこにおける、市電描写の詳しさは、市電マニアとしか思えない。

★当時は市電の終点に、客待ちの人力車が止まっていた時代。今でいう客待ちタクシー

★田口が知人Aに門司だか馬関(下関)だかで悪戯したエピソード、
 この中で「新聞に、Aがこちらにお越しになると載ってたものですから」と女中に言わせるシーンがある。
 →当時の地方新聞は、総理大臣クラスでなくても、「東京の名士がやってくる」となると、
 動向を報道するものらしい。

 今で言えば「孫正義、明日帯広を訪問!」「三木谷、来週秋田を訪問!」と、
 十勝毎日新聞とか秋田魁新聞が報道しているようなものだ。

★カーキ服を来た軍人が街を闊歩している描写があった。
 当時の帝都は、それが「当たり前の光景」だったんだが、今の東京で、
 銀座とか新宿とか、いや霞ヶ関や永田町界隈でも、自衛隊の制服を来た人間を目にすることは難しい。

★電燈が導入された直後の社会なので、電燈の使い方に文句を言う人がいて面白い。
 「なぜ電燈は明度調整ができないんだ!不良品だ!」
 「電燈はアルコールランプとは違います。オンかオフかの二者択一です」
 今でも、安物の電灯はオンオフの2者択一だけど、高いのは調光機能があるよね。
 LEDなんかでも調光機能があるものがある

★当時は、「自宅」で、来客をもてなす時代だったんだな、とわかる。 
 客間も揃ってるし、女中もいるから、そういうことが出来るんだろう。
 小説中で、超エリートの田口は勿論、「高等遊民」な松本ですら、客人をしばし自宅で接待している。

 翻って現代では、年収1,000万円プレーヤーでも、自宅で客をもてなすなんてことは、しないだろう。
 「客をもてなす機能」というのが、ホテルのアウトソーシングされたんだろうな。
 自宅で客をもてなすというのは、逆に言えば洋風ホテルが未整備だった時代、とも言える。 

★明治の末年でも、人に紹介状を書く際は、筆と硯を使ってたんだな。
 まだ万年筆は普及してなかったのか?

★「さっぱり」という言葉、「薩張」と表記されている。
 この言葉、薩摩に関係ある言葉なのか?

★松本という人物、高等遊民ではあるが、「家族を抱えた高等遊民」でもある。
 財産が豊富だからそういうことも出来るんだろうが、世間体的に、
 そういう存在は許されていたんだろうか?
 主人公敬太郎も「高等遊民に、家族がいるんですか?」と驚いている。

★ロシアのゴーリキー剛力彩芽ではない)が、アメリカに渡り、「ロシアの革命に援助してくれ」と
 回っていたら、多額の寄付金が集まったが、ゴーリキーの「妻」と思われてた女性が「情婦」とわかった途端に、
 アメリカ人はゴーリキーを嫌って、寄付金が集まらなくなったらしい。
 ・・・というエピソードが作中に描かれていて、特に「革命」「社会主義運動」に対する
 感情は描かれてない。
 (「女性に関するアメリカとロシアの常識の差」が主題)

★この小説が書かれたのは1912年。つまりロシア革命前だし、第一次大戦前。
 ロシア革命成就後の、「社会主義者に対する、体制側の異様な憎悪」というのは、この作品からは感じ取れない。
 1917以降に書かれた作品であれば、ゴーリキーのエピソードに対し、ポジティブなりネガティブなり、
 もっとリアクションがあって然るべきなんだが。

漱石は1916年に死去。つまり地球上に労働者政権、社会主義政権が誕生したのを見ることなく死去。
 もし漱石ロシア革命成立まで長生きしたら、何とコメントしていただろうか?

漱石の小説のテーマは「高等遊民」だが、これって小作農からの搾取の元に成り立っている。
 ロシア革命が日本にも飛び火すると、高等遊民も存在しえなくなるのだが・・・
 その場合、漱石のテーマは「高等遊民に生まれてしまった原罪」を追求する、太宰治的な世界になってしまうのだろうか?

大正デモクラシーも見ることなく漱石は死んだんだな。
 「日露戦争以降、大正デモクラシー前」という、「明治が一番肥大化していた時代」が、
 まさに漱石の活躍時代だった訳だ。

★前にツイートした通り、漱石が文壇で活躍してたのは、わずか12年間。
 その期間が「明治の一番の肥大期」と重なってしまったから、
 漱石は「明治批判の急先鋒」という役回りになってしまった訳だ。

★ところで、朝日新聞って、漱石の遺産で喰っている面もあるよね。
 漱石が載ってた朝日を読むと受験対策になるから、受験家庭は朝日を好む
 朝日が漱石を採用してなかったら、朝日は今みたいな「知識人の牙城」の地位を、果たして確保できていたか、否か。

★当時の朝日新聞とか、「南洋冒険談」とか、掲載してたんだな
 総合雑誌的な色彩があったとも言える。
 ・・・むしろ逆で、「総合雑誌がその頃は存在してなかったから、新聞がその役割を担わざるを得なかった」のか?

夏目漱石は「純文学」を確立したのだが、これ裏返せば、
 当時は「純文学と呼べないような、大衆小説」がゴマンと溢れていたんだろうな。
 国語の教科書にも載らないような、いや、国会図書館でも蔵書してないような娯楽小説。
 帝国大学卒なんかじゃなく、せいぜい中等学校卒とか、尋常小学校卒が読んでるような小説。
 なんか「クオリティペーパー」VS「スポーツ新聞」な話だな。

夏目漱石は、内幸町にエリートの「田口」を住まわせ、矢来町に高等遊民な「松本」を住まわせた。
 やはりエリートは霞ヶ関のおひざ元に住まわせるのが自然で、松本のような得体のしれないのは、
 矢来町辺りがお似合いと思ったんだろう。
 これって、原武史先生の主張する「地理政治学」のさきがけだよね?

★というか、当時はまだ内幸町に人が住んでいたんだな。
 現代の内幸町はすっかりオフィス街化して、昼間人口なんかいないんじゃないか、という世界だから、
 その変遷に驚かされる

★市蔵が、千代子のことは意識するのに、下女の「作」のことは女性として意識しない。
 やはり当時は「身分の低い女性に対しては、異性として意識することすら、なかった」んだろうな。

 白人女性が、黒人の男性召使いの前で平気で着替えをする、イコール
 「黒人男性を異性として意識する発想そのものがない」というのと一緒だろう。

★というか、当時の下女って、結構若いんだな。作は19歳。
 自分はてっきり、下女というのは50歳以上の、当時としては「老婆」がなるものだと思い込んでいた。

 であれば、「男性の主人と、下女の恋愛物語」な作品がもっと多くてもいいのに、とも思うのだが、
 そういう作品が少ないのは、やはり「当時の家柄の高い男性は、下女を異性・性的対象と見ることが
 あり得なかった」んだろうなあ。