3.11から7年

3月7日
下の子が当時ギリギリ3歳になった頃に震災発生。彼は震災記憶が不確か/上の子はクリアに記憶していて、「何故覚えてないの?」と下の子にツッコミ入れている / “震災、直接の記憶ない子の心にも影響 被災地で調査:朝日新聞デジタルhttp://htn.to/MgDfBMD

3月11日
自分は自宅と会社が首都圏の割には比較的近くて、震災が起こっても割と楽に帰宅できると思ってた/実際の震災は、自宅でも会社でもなく、会社の更に先のビッグサイトにいた際に起こった。お陰で5時間掛けて徒歩帰宅 / “6時間歩き続けること…” http://htn.to/zqEAXK

小松左京が「阪神大震災を経験した京阪神の人は、個人毎の体験を書き留めておくべきた。将来、貴重なアーカイブになる」と毎日新聞で呼び掛けていた/3.11の時代は、アーカイブを世界に公開する手段が広がってる(ブログ等)。東北〜首都圏民は、個人の3.11体験をアーカイブ化して公開すべし

震災の経験、記憶って、ツイッターとかFBに、3月11日とかに「思い出したように書き込まれる」が、その断片的アーカイブを、整理する作業が必要。その人が震災時にどこにいたか、自宅の被害は無かったか、更には就業状況とか家庭環境も、アーカイブの背後情報として重要

前にもツイートしてるが、スマトラ沖地震(津波)からいろいろ学べておけば、3.11の被害はここまで拡大しなかったと思う/が、スマトラ沖地震は「日本のマスコミが活動停止する年末年始に発生」した為、平常時の半分もマスコミは津波を伝えなかった/3.11被害拡大の責任の半分はマスコミにある

東日本大「震災」というネーミングは、果して正しいのか?/震災はそれぞれ特長があり、関東大震災は「関東大火災」であり、阪神大震災阪神「大圧死」であった。建物倒壊で多数死亡/東日本大震災は、実態としては東日本「大津波」。圧死や火災死も、「ない訳では無かった」が、多数は津波

津波について言えば、三陸海岸チリ地震津波以降、「津波警報が出る地震が数年毎に起きるが、でも被害は出ない」という状態が50年近く続いて、昭和40年台生まれ以降の世代が、「津波警報に対してオオカミ少年状態だった」との説も/尚更、スマトラ沖地震を教訓にすべきだった

恐らく、3.11を知る世代が50年後に少数派になり、50年後の若者は「津波警報でいちいち避難するの、ダルい」と文句を言うようになり、そういう頃に津波はやって来る

だから「50年後、津波警報に対してもウザいと文句言う世代が住民の多数派になる」ことを前提に、街作りは考えるべきなんですな。強制的に津波エリアの居住は禁止するとか

震災後にボランティアで現地入りした人が言ってたが、被災地は「強烈な匂い」がしていたそうだ。こればかりは、テレビでは絶対に伝えることが出来ない体験

あと、その人が語ってたが、「テレビは極力、画面に遺体が入らないように映す」が、実際に被災地に入ると「どうしても、視界内に、遺体が飛び込んでくる」とのこと/外国メディアは遺体も放映したらしいが

大川小学校、当時児童だけじゃなく「近所の老人も小学校に避難してきたから」、老人が登れない裏山を避難先から外したんだよな。老人ファーストで犠牲になった児童/教師は、避難してきた老人の安全確保より、児童の安全確保を最優先すべきでは?

大川小学校、教師は10人程度だったが、近隣住民(大半は高齢者)が50人位避難してきたから「大人の多数決で」裏山避難が却下された、という構図なのか

3.11当時を振り返って「津波のテレビ画像に衝撃を受けた」的ツイート多数だが、同じような映像はスマトラ沖地震でも撮られてるのにね。やはり年末年始にスマトラ津波報道をサボった日本のマスコミの罪は重い

津波の件は、東北出身者がツイートするのは勿論だが、本当に「我が身のこと」としてツイートすべきなのは、静岡〜紀伊半島〜四国〜宮崎の住民なんだよな。確率論から言えば、既に歪みが解放された東北日本より、今更に歪みが蓄積されてる西南日本の方が大津波襲来リスクは大きい

よく「この地点まで津波が来ました」なモニュメントが東北各地に存在してるが、優先順位的にはそういうモニュメントを「静岡〜紀伊半島〜四国〜宮崎」に先に設置すべきなんだろうな

津波関係のツイートを見てるが、いろんな教訓的エピソードが拾える。「津波第一波がセーフだったので、油断してしまい、第二波でさらわれてしまった人」もいるらしい

3.11、宮城内陸が最大震度7と発表されてたが、それが為に行政の初動が「内陸の被害対策」が優先されてしまって、津波への初動が遅れてしまったのかも。仮に宮城内陸の最大震度が6強以内だったら、もっと津波初動に注力できていたのかも


因みに、ビッグサイトから十数キロ徒歩帰宅した自分だが、途中丸ビル、じゃなく新丸ビルで休憩した。新丸ビルのテレビモニターの津波画像よりも、速報の「福島第一原発で、、」というアナウンサーコメントの方が遥かに衝撃的だった/津波画像は自分の中で「想像の範囲内」、原発は「想像の範囲外」

仕事で震災1年後に石巻に行ったが、「鯨大和煮」の巨大ドラム缶が津波で流され、路上放置されてた/あのドラム缶、震災遺構としてのインパクトがハンパないので遺すべきだったと思うのだが、撤去されたそうで残念

鯨大和煮巨大ドラム缶@石巻。撤去されてしまい、残念 / “見ておくために石巻へ。この... - 写真共有サイト「フォト蔵」” http://htn.to/xDVBp4

震災遺構で検索したが、今残されてる震災遺構って「建物系」ばかりなんだよな。つまり、「津波前から、そこにあった建物」/これだと、津波の破壊力は少し判るが、津波の「輸送力」が全く伝わらない

石巻の鯨大和煮巨大ドラム缶と、気仙沼の漁船は、「本来、そこにあってはオカシイものが、そこにある」というだけで、津波の異様さが肌感覚で判るモニュメントな訳で、津波の破壊力だけじゃなく輸送力が判る/ドラム缶も漁船も撤去された。これで50年後の若者は津波警報オオカミ少年になる

新宿というか、甲州街道南に牡蠣フライの名店がある/2011年3月9日に地震があり、津波注意報が出て、牡蠣養殖に少し被害が出た。「数日は牡蠣食べれませんね」と会話した記憶/今から考えたら、あれが「前震」な訳だ

津波の時、あの時何してましたか?」ツイートを斜め読みしてると、5つに1つ程度が「津波の時は小学生でした」「津波の時は幼稚園でした」。ツィッター界の年齢構成より、有意に年少側に偏っている/これは、震災時大人だった人よりも、心へのトラウマが子供は有意に多かったということか。