三軒茶屋がさびれてシミキタが栄えた理由

12月12日
リリー・フランキーが対談の中で「芸術や音楽で生き残っているヤツって、才能あるヤツが生き残っている、というより、辞めなかったヤツが生き残っている」と名言。「才能あるのに、実家の都合で故郷に帰らなきゃならなかったヤツを下北沢で沢山見てきた」

その意味では、「実家の都合」「親の要請」という縛りから解放される「60歳代シニア」というのは、才能あるヤツでも芸術とかで活躍しやすいんだろうな/ただ、「自分の健康の都合」というのが、あるが。

、、、「60歳代シニアでも、妻の反対があれば、芸術音楽で才能開花できない」ことに気付いた。独身最強?

でもまあ、今後「60歳になって、小金もあって親も死んで、好きなこと出来るから」ということで 、60歳になってから上京して下北沢で演劇やバンドするシニア、なんてのが増えてくるかもしれない。

その対談本は「下北沢」がテーマの対談本だが、リリー・フランキーが「最近の下北沢は、女の子が可愛くなった」と嘆いていた。「昔は女の子はいたが、可愛くなんかなかった」/可愛くなったというのは「下北沢の危機」

60歳代シニアが、芸術音楽の夢を求めて、上京して活躍したいなら、その場所は「女の子が可愛いシモキタ」じゃなく、「巣鴨が至近な池袋」の方がふさわしい気がする。まだ「女の子が可愛くない」から、芸術の余地がある

12月13日
下北沢の本に載ってたネタ/高度成長期まで、あのエリアの中心は下北沢ではなく三軒茶屋だったらしい。それが70年代になって力関係逆転/三軒茶屋が衰えた理由は「玉電が地下に入ってしまったから」

地上を走行してると、電車の中の客は、沿線の活気を車窓から肌感覚で感じられ、「ぶらり途中下車」もされる。桜新町なマスオさんが、活気に釣られて三軒茶屋で途中下車して飲んだりする/地下を走行したら、地上の様子は判らない。なかなか「途中下車のインセンティブ」がない

これはつまり、同様に地下に入ってしまった下北沢が、今後は厳しくなる、ということ/東横が地下に入って、渋谷が地盤沈下してるのにも通じる話/逆に言えば、地上を走る山手線の沿線に繁華街が多い理由でもある

下北沢より、隣の世田谷代田、元の駅名が世田谷中原の方が戦前は賑わっていたらしい/世田谷中原が衰退した理由は2つ。一つは空襲にやられたこと。下北沢はやられなかった。/もう一つは、オリンピック時に開通した環状7号線。あれで街が分断され、衰退したらしい

井の頭線乗ってると、新代田と高井戸が環7、環8に接してる。で、言ってはなんだが、この2駅は、あまり駅前はパッとしない/或いは、新代田も高井戸も、環7環8開通までは「それなりに賑わっていた」のが、環7環8に破壊されたのか?

環7のルートが少しずれて、高円寺を直撃してたら、高円寺の賑わいも破壊され、いまのようには栄えなかったかもしれない

自分が昔育った南茨木なんかは、駅上を近畿道中央環状線が通っていて重々しい。あれがなかったら、もう少し発展したのかも/でも、それがあるお陰でモノレールが乗り入れているので、痛し痒し

12月16日
以前下北沢の急成長は70年代以降とツイートしたが、その背景としては、「小田急沿線で、大規模戸建て団地が多数でき、下北沢の後背地人口が成長したのが70年代以降」という要因もあるのでは?60年代までは、小田急沿線の人口は中央線と比べると一段少なかった

12月17日
@yoma_kenichi 「下北沢ものがたり」という本によれば、70年代の下北沢はロックの街で、演劇の街になったのは80年代から

@yoma_kenichi 70年代の下北沢のロックシーンは凄くて、売れる前のサザンとか、RCサクセションとか、いろんなビッグネームがここでライブやってた

@yoma_kenichi 70年代の下北沢ロックの象徴だった「下北沢ロフト」経営者が、新宿にも進出して、下北沢の方を疎かにした。その結果、80年代の下北沢は大物ミュージシャンを輩出しなくなり、街の主役を演劇に譲った、とその本には書かれてます

因みに演劇系の人間とミュージシャン系、外野から見たら同類に見えるが、演劇系の人間から言わせたら「ミュージシャンは礼儀が全く成ってなくて、酔うと暴れたりモノを壊したり。その点、演劇やってる人は礼儀正しい人が多いので、一緒にしないでくれ」と書いてあった

シモキタがロックの街だった70年代から、80年代には演劇系にシフト/「ミュージシャンはモノを壊すが、演劇系は礼儀正しい」ということだと、80年代になってシモキタはそれなりに「礼儀正しい街」になった訳だ/70年代のシモキタは、もっとワイルドだったと思われ。

シモキタがロックの街のママだったら、つまりはワイルドな街のママだったことになる。そうなると、今みたいに「女の子にも人気なシモキタ」にはイメチェン出来なかったのかもしれず、下北沢ロフトの経営者が下北沢を「一旦、見捨てた」のは、下北沢にとってはむしろラッキーだった

まさにリリー・フランキーが「昔のシモキタの女の子なんて可愛くなかった。今は可愛い女の子が来る」と言ってたのは、シモキタが「ロックの街から演劇の街に変わったから」。ロックの街のママだと、可愛い女の子は来ないだろう

因みに一旦シモキタを見捨てた下北沢ロフト経営者は、再び下北沢に舞い戻り、住民運動を活性化して、保坂氏を区長に仕立ててしまったらしい

ただ、何もない住宅地が、いきなり演劇の街になるのはハードル高い。その意味では、シモキタは一旦「ロックの街」になったことが、「演劇の街」へコンバージョンしやすくなったのかもしれない。ロックの下北沢ロフトの存在は、演劇の街になる為の触媒の役目

ロックのライブハウス作るのは、そんなに大きな設備投資はイラナイ。だからライブハウス作るのはハードル低い/だが、小劇場とはいえ、劇場作るのは、結構投資コストが高く、ハードル高い

もしシモキタにライブハウスが無くて、他所から若者が流入してなかったら、いくら本多氏でも「若者いないケド、劇場作ろう」とは思わなかったと思う。ライブハウスが若者を呼び込んでくれたから、本多氏も、「いっちょ小劇場を作ってやろう」と思ったのでは?

因みに、なぜ70年代初頭にシモキタにライブハウスが出来はじめたか?というと「吉祥寺に出したかったケド、吉祥寺は家賃高いから」な理由だったようだ。つまり、ルーツは「中央線の3寺文化」だった

仮に「ライブハウスを東京の西の方に作りたいが、でも吉祥寺は高いしなあ」という人が、シモキタじゃなく明大前にライブハウス作っていたら、そのまま明大前が「若者の街」になっていたのかもしれない。鉄道アクセス的には、シモキタも明大前もそんなに条件変わらない

でも、明大前だと甲州街道が街を横断してるから、若者の街としての発展はなかったのかもしれない

これも仮説だが、シモキタって「都心の大学と郊外の大学の中間点」なんだよね。70年代以降の「大学の郊外移転」が、シモキタの繁栄を産んだ、の大胆仮説

そうなると、大学の都心回帰は、その意味ではシモキタの地盤沈下を招くのかもしれない

ライブハウスがシモキタに出来て明大前に出来なかった理由のこじつけ。シモキタなら小田急がある。小田急は箱根に行くとしか思われないが、実は藤沢江ノ島にも行く/サザンが下北沢で下積み積んだのも、その辺が関係してる気がする

ガラスの仮面」見てると、まだ当時の演劇の中心はシモキタじゃなかったことが判る。北島マヤが「真夏の夜の夢」を演じたのは吉祥寺の井の頭公園/時代がズレていたら、彼らはシモキタで劇やってた筈/美内すずえ先生が住んでたのが武蔵野市だった、というのもある