【旧華族談義】

2月8日
図書館にあった、1982出版の、元華族の自叙伝を借りたが、これが非常に面白い/図書館で32年間存在し続けてる本、というのは、解釈次第では「自然淘汰に勝ち残った、名著」とも言える。自然淘汰を経ていない2012〜13の著書を読むより、確実かも
多分、図書館が1982に購入した本の中で、2014迄図書館内に生き残る本は1割程度だろう。あとの9割は、1990頃に廃棄処分
華族の本を読んでるが、「爵」の字や「卿」の字を、戦後生まれは書けない。自分も書けない/多分、戦前は中学辺りで習ったんだろうなあ/戦後、GHQ辺りが「こんな反動的な漢字は、義務教育で習う必要なし」として、漢字教育から外した?
仮に天皇制がGHQによって廃止されていたら、「皇」の字も廃れていたかも
華族の女子が、宝塚に憧れて、宝塚の男優スターのところに駆け落ち同棲したスキャンダルがあり、以降学習院女学部は生徒の宝塚趣味を禁止したらしい
ふと思ったが、宝塚歌劇団は関西本拠だったから、生き残って今に至ったのでは?仮に東京に歌劇団があったら、戦前の然るべき時点で「風紀を乱す」として当局に禁止されていたかもしれない
華族は旧公卿、旧大名、維新の元勲から成立。基本、東京居住を命じられた/地元の名士になり得た旧大名に東京居住を命じた、それが東京集権の一因になったのでは?
まあ維新政府としては、旧大名を地元に帰してしまったら、そこで実力付けてしまって、第二の西郷隆盛、第二の西南の役になりかねないから、その芽を摘む為に東京居住命令だったんだろうなあ
@aka1you 華族の大半は貴族院議員なので、その意味でも東京居住なのかもしれない
華族と東京集中の相関談義を続けたいが、今からお風呂で幼稚園児とドラえもん見なければならない・・
2月9日
金沢前田家のお姫様華族の本を読んだんですが、仮に前田家が維新後も金沢居住だったら、例えば出入りの呉服商とか美術商とかも金沢に居を構えてた訳です。維新政府の華族東京居住政策で、呉服商美術商の類も東京に集中することになった
又、前田家は東京駒場に屋敷があり、使用人は100名以上いたらしいですが、多くは江戸時代からの家臣だったらしい。つまり維新政府の華族東京居住政策は、結果的に家臣団の東京居住を伴った
穿った見方をすれば、維新政府は華族東京居住政策で、東京に富も文化も集中させることを企図していたのかもしれない
日本の華族階級は、欧州列強の外交官(多くは貴族)としばしパーティーを開き、「貴族外交」を展開していた。列強との外交を展開するために、「貴族外交の担い手」という重責を華族に課した、とも考えられる。当然、貴族外交の担い手は東京居住を義務づけられる
@aka1you 堺屋太一は「東京一極集中は、戦時体制が敷かれた1940がルーツ」と主張。自分もそう考えてたが、この華族の自叙伝読んで考えを変えました。維新政府が上流層東京居住政策を進めたことにルーツ
@tsuyu2011 本郷は明治期に売却して、駒場に移り住みました。大正末期か昭和初期に生まれた前田家華族自叙伝なので、舞台は駒場です
つまり、徳川家は大名に「半分江戸・半分地元」住まいを命令し、「半分中央集権・半分地方分権」を企図した。/明治政府は「100%中央集権」を企図した
西南の役の頃は、元大名を地元に下放したら、反乱の中核になりかねないから、東京で監視する必要があった/そういう心配も薄れた大正デモクラシーの頃に、華族の地方帰還や、県知事の勅命知事→民選知事への改革していれば、とも思う
自分は以前、半分冗談半分本気で、「本気で地方分権を進めたいなら、(日本国憲法の制約はさておいて)各県なり各州に、世襲の象徴県主、世襲の象徴州主を置けばいい」と主張したが、この華族の本を読んで、ますますその思いを強くした
前田家の生活見ていると、音楽や絵画に満ちあふれてる。作曲家が出入りしたり/高度成長時、ピアノは大衆の憧れとして普及した。一種のステータスシンボル/その結果、華族等が独占してたピアノや作曲スキルは、大衆に解放された/しかし、もう一つの上流アイコンである絵画は普及せず
欧米では、年収10万ドルクラスの中流家庭には大体絵画がある。従って、教育調査で「君の家に絵画があるかい?」という質問が、家庭の経済状況推測質問になりうる/この質問は日本では通用しない。絵画は日本中流家族の必須アイコンじゃない/この点だけは日本中流家族は華族を真似ず
なぜ華族の2大文化ツールのうち、ピアノだけ大衆に普及して、絵画は普及しなかったのか?推測だが、普及を旗振りする企業がいなかったからでは?つまりヤマハやカワイみたいな資本が絵画界には存在しなかった/上流界のたしなみである短歌俳句などが大衆に普及しなかったのも同じ理由
2月11日
華族の本を読了/加賀百万石・旧姓前田美意子氏は「昭和天皇終戦聖断は、(美意子氏の学習院の学友である)昭和天皇の長女・成子内親王の強い終戦意向が反映した結果だ」と大胆な仮説
終戦直前には、天皇周囲に近づけたのは軍部関係者だけで、近衛文麿高円宮(弟宮)も迂闊に近づけなかった(東条英機がガード)。唯一天皇の長女である成子内親王だけは近づけた。女性だからガードが緩かった?/内親王はその立場を逆利用して、東条が天皇に伝えない「不都合な戦況」を天皇に伝達
華族の東京集中政策だが、例えば似たような後発資本主義国であるドイツなどは諸侯をベルリンに集めなかった。各地に存置させた/多分、フランスなどと陸続きで、ドイツ諸侯とフランス等貴族間の「地方同士の交流」が盛んだったから、窓口をベルリンに一本化できなかった
「各国地方貴族同士の交流」と言うのは、形だけの交流や経済交流に留まらない。それこそ姻戚関係、通婚関係。そういうネットワークを無視して諸侯をベルリンに一極集中させられない/極東の島国で、他国貴族との通婚関係もない日本貴族は、東京集中させるのが可能
西洋の貴人を「もてなし」しようにも、明治期には「西洋インフラ」は東京横浜箱根程度しかなかった。例えば金沢で西洋貴族を「もてなし」できたか、疑問
例えば、西洋人が欲していた「牛乳」も、明治時代では東京周辺でしか生産してなかった。金沢辺りでは生産してなかったから、西洋貴族が金沢を訪問することはできなかった
その意味では、東京〜横浜を「欧化特区」として、西洋インフラを集中投資したり華族強制集住で貴族外交させた明治政府の政策は、国家財政困窮時には最善策だった
2月12日
華族・前田氏の本を読んでると、現代の「県人会」は「旧藩士が、元藩主を囲む会」がルーツだった気がする。前田氏・加賀藩では、しばしそういう宴があったそうだ。
華族・前田氏らの「上流階級」は、クラシック音楽の鑑賞や作曲などを楽しんでいた。/ふと思ったが、昔のクラシック音楽の「権威」の本質って、「作曲能力・演奏能力・鑑賞環境を上流階級が独占していた」ということなんじゃないか?
つまり、ピアノを持ってるのは上流階級だけ。ましてや「ピアノが弾ける」「楽譜を読める」のは上流階級の特権。クラシックの演奏会に行けたのも上流階級だけだし、ラジオも街頭BGMもない時代だと庶民は西洋音楽と無縁だった。
裏返して言えば、戦後「ロック・ポピュラー音楽」が上流階級から唾棄された一因は、「上流階級による音楽独占を崩されたから」という要素もあるような気もする。
2月13日
@hk_tokyo 旧華族は財布を持ち歩かないらしい。支払いは「お付きの者」が行う
3月1日
前田美意子によれば、加賀前田家当主で、大戦で戦死した前田利為は、「将来、日本でも革命が起こり、皇族華族は廃止になる」と予想し、娘の美意子に「華族から転落しても、ちゃんと生きていける術」を教え込んだ。皇族との縁談も反対した。その慧眼に驚かされる。
前田利為は陸軍で東条英機のライバルで、東条から疎まれていた。大臣に推挙されるほどの家柄と実力を兼ね備えていたが、「軍人は政治に介入するべからず」の信念で。大臣要請を固辞し続けていたらしい。/今では知名度低い人物で、自分も美意子の自伝で知ったのだが、小説ドラマの主人公にしてみたい
前田美意子は旧姓だったな。結婚後は酒井美意子。
戦前家族文化の中で、「ピアノ」は高度成長時に大衆普及したが、「絵画」は普及しなかった、とツイートした。「ヤマハやカワイのようんじゃ仕掛け人の有無が影響」/「ゴルフ」や「スキー」も、戦前家族文化だったのが、高度成長後に大衆化。これも商業資本による仕掛けの影響。
加賀前田藩で思い出したが、北陸新幹線開業で、観光客の流れ(含む外国人観光客)が大幅に変わる、と観光関係者は予想しているらしい。従来、東京〜富士箱根〜京都が「ゴールデンルート」だったが、東京〜金沢が新たなゴールデンルートになる、との予測。
地方経済の実力を鳥瞰してみると、北陸地方の潜在経済力の豊かさに驚かされる。四国南九州北東北とは歴然の差。/北陸新幹線は、潜在経済力を開花させる契機になるかも。/逆に言えば、富山金沢が成長する一方で、新潟が衰退するかも。
新潟の上越地方(直江津・高田)は北陸新幹線開業で、完全に県都新潟市とは利益相反する関係になる。松本と長野が沿線が違ってるがゆえにいがみ合っているのと同じ構図。/私見だが、長野北部(長野新幹線エリア)と新潟西部・上越エリアで同じ県を構成した方がスッキリするのでは?
3月2日
@monophemus 各県の世帯年収や預貯金残高を比較したら、北陸3県は首都圏に次いでトップクラスです